「母親になって後悔してる/オルナ・ドーナト」

 

ー子どもを愛している。それでも母でない人生を想う。
ー社会に背負わされる重荷に苦しむ23人の切実な思い。世界中で共感を集めた注目の書!

 

Amazonで人気書籍を検索していたらこの本が目についた。

「なんてタイトルだ」と思う。こういう刺激ばかり求めるタイトルになったのは、読者の<言葉に対しての読解力>がなくなったからだ。いや想像力というべきか。やたらと長いタイトルが貪り、最初の1ページすら見ずに内容を把握できる本たち。その時間がもったいないとでも言うように。ならば本など読むな。

しかし、このタイトルのおかげで妊娠の発覚にのぼせあがり、子供という存在そのものを見れなくなった母親たちが一歩足を止める理由にもなる。

 

実際わたしの友人は「旦那との関係性を変えたい。日常になにか変化が欲しい」と妊活を始め、果てには子宮内のポリープを切除し、不妊治療に生活すべてを左右される毎日。

彼女よ、止まれ。

一度振り返り、その存在が脅かすであろう自身の時間と体力と体液の重さを感じろ。

自分が決断したのだとはっきり言えなければ、これから先、自己責任の海で溺れるぞ。

 

思いが先行し、本の表紙を手にコーヒーを飲みながら憤怒し

ここまで書いたわたしは、ようやく本を読み始める。

心の底で「完全なる母親の像」をイメージしながら…。

 

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(抜粋ではなく、わたしの身体を通った筆者の言葉)

 

女性は「正しい」決断を下して母親になるべきだという社会的圧力のもと、

母親になると

・自分が女性であることを自覚させ、世界に知らしめる

・世代の連鎖をつなげる一員になれる

・何かを所有する権利が与えられ、子供に対する権利を持ち得る。よって人類の最大の課題である孤独を克服できる

・女性として成熟する

・新しい避難場所ができる

 

 

子供は必ずしも<選択の自由><自然の摂理>によって生まれてくるのではない。時にはそれ以外の道が見つけられない場合にも生まれてくる。

 

穂村弘が紹介していた短歌で、

シャワーを浴びている女性が放った“滅びる”と言う言葉を発するものがあったのを思い出す。

女性は身体に美味しい匂いのするクリームを身体中に塗りたくり、その曲線を撫でながら

その身体が変わっていく様を眺める。枯れていく様をじっと、ひとりで。

わたしの身体を知っているのは、わたしの指先だけなんだ。と思う。

<普通><正しい>女性の人生のロードマップには必ず妊娠・出産が入ってくる。体内時計ではなく、社会の時計が私たちの体の賞味期限(妊娠可能時間)を告げ、賞味期限が過ぎた身体は生モノ(奇妙なおばさん)のゴミ箱に捨てられる。

その未来に怯え、1人でいることに耐えられなくなる。

 

 

子供はわたしが経験し得なかったすべてを体験できると思っていた。とんだたわごとです。

 

ー子供は母親の過去を塗り替えるための手段として存在する。

宗教や過激な思想にのめり込むのはそれまでの人生を捨て去り一気にヒーローになれるからだ、といった小説家がいたが、子供はその対象になり得ている。とくに現代の日本では一発逆転を狙う思想が広がっているように思う。「勉強をしなくとも天性の才能でゲーミングの賞金を勝ち取る」「整形をしたら一斉に男性にモテ始め、自分を馬鹿にした奴に復讐できる」「聞き齧りの知識でそれっぽいことを喋ってyoutubeで有名になる」

自分とその周りの環境が作った過去に満足いかなかった場合、一発逆転を狙って、新しいコミュニティに所属しようとする。母親というのはとても大きいコミュニティだ。そこで、自分ができなかった素晴らしい環境で、適切な教育と、素敵な景色を見せる。。。。

わたしもそんなことをなんとなくぼやっと思っていたが

ここまで書いて気づく。

なんだ、わたしも起死回生狙ってたんじゃん。

しかも他力本願じゃん。

勉強して勉強して勉強して失敗してでも勉強して…で勝ち取ったものではなく、いまだ生まれていないこの世界を見たこともない子供に任せっきりじゃん。わたしすら生まれ直したくもない世界に、自分の都合で同じ人間を増やすのかよ。

 

 

女性が同意するが意思に反して子供を産む場合があると言うことだ。悪い選択(誰の母親にもなりたくないのに母になる)とさらに悪い選択(子供作れないなら離婚する、家から追い出す、家族やコミュニティから非難される)のはざまでどちらかの道を決定せざるおえなくさせられること。

 

いま話題になっているのは松本人志さんの性加害問題。ここで裁判の論点になるのは性的同意があったかどうかだと思う。この本に登場するセクシャリティ分野の研究者は「セックスに応じること」と「セックスを望むこと」は同義ではなく、セックスの同意という言葉によって危険の回避をしようとする状況を無視しがちだと論じていた。

でもこれってすごく難しい問題で、「ホテルには行くし、ベッドにも座る、シャワーも浴びるけど、セックスする気はなかった」とか「セックスしてもいいと思って行ったけど、相手の話を聞いていたらゲンナリしてやる気が失せた」とか「立場の高い相手を断ったら仕事がなくなるかもしれない」とか。

言葉で交わされることが少ない密な時間だから、契約書なんてないのだ。

 

わたしは以前好きになった相手とキスをしていたら、その人のキスの音が気持ち悪くて気持ちわるくて、この音でわたしの全身が舐めまわされることを想像したら吐き気がして、その後の行為を拒んだことがある。その場ではわたしの意思が尊重されたけど、そのまま行為に至っていたとしたらわたしは「なんとなく嫌な時間だった」と思うだろう。そして時間が経ち、その相手が確固たる地位に守られた土俵で、自由な発言をしていたら、恨む思いが募り…なんてことあるかもしれない。

しかもその時感じた感情と、時間が経った後思い出した感情は変わることが多い。

時間を思い返す回数が多ければ多いほど、感情は歪み、しかし固くなっていく。

 

重要なのは

<同意>と<意思>を意識的に聞き分け、分けて考えること。

そしてムード尊重なんて端に追いやって「ヤっていいですか?」「ヤっていいですよ」と言葉で交わすこと。…なのか?

裁判でアンビバレントは通用するのか…?

 

良き母は疑問や条件なしに我が子一人一人を愛し、母である喜びを感じなければならない。子供が母親をどんな感情で見つめていようと、同じ感情を同じように注ぐべきだということ。母親の感情を規制してでも、最終的には女性に益が得られるのだからという社会。

 

現代の理想的な母親像は<母であるだけでは足りない。職業を持ち、わずかな自由時間で幼稚園や学校の活動に勤しみ、疲れ切っていたとしてもセクシーである必要がある。>相容れない母(性に関係ない)と女性(セクシャリティ)を一緒くたにできると思っている。

 

常々感じている。この感情。

 

 

直線的な時間の概念のルーツは、ユダヤ教とキリスト教の伝統に見られるものであり、そこでは救いと贖いの物語を与え、旅の終わりに深い意味が明らかとなると言う流れ。この直線的時間感覚が各個人が誕生してからの人生経験を構成する。しかし時計と時間的感覚は区別することができる。記憶や空想や悪みやフラッシュバックといった意識の中に閉じ込められた時間がある要因によって蘇ることもある。

 

ウィリアム・フォークナーが言った「過去は死んでない。過去でさえない。」

 

また思いついたら書く。