関東は桜がピークを過ぎた途端に

初夏の日差しも感じさせる陽気となりました。

昨年末、 

いつの間にか骨折(外的要因がなくても骨粗鬆症から骨折してしまう) 

で腰を圧迫骨折した83歳の母は

   「暖かくなった頃には外に出られるかなあ」

とそのことを励みに在宅でのリハビリを続けてきました。

 

最近では調子が良ければ4輪カートを支えに、

マンションに隣接したコンビニくらいは、

一人でヨチヨチと出かけられるようにまで回復。

 

そんな母の元に、母の2歳上の姉が骨折して入院していると

知らせが入りました。

 

四国出身の母は、本来は7人兄弟ですが、姉妹という意味では

姉と妹がいて、他の兄弟も含めて本当に仲のいい関係性でした。

 

当時

母のお姉さんが大阪へお嫁に行くと、お産の準備と産後の

お手伝いのために、まだ独身だった母は姉の新婚家庭で

1年間も一緒暮らし、家族のようになんの違和感なく、

子育てを手伝い、その後もこの歳になるまでとても仲良しでした。

 

7歳下の妹は6年前に病気で他界し今では

姉妹という意味では母とお姉さんと二人だけ。

 

そんな背景もあり、昨年末に最愛の夫を見送った母には

残された、たった一人のお姉さんを見舞いたい、助けてあげたい

という想いがありました。

 

食事もほとんど食べられない状態と聞いて

「近かったら本当に行って食べさせてあげたいけれど、

              私もこんな状態だからね」

と辛そうにつぶやく姿を見て。。。

 

「連れて行こうか?」

 

もう、今しか会えないかもと思った私はそう言ってました。

 

母は私の仕事や体のことを、とても心配してくれましたが

 

今の状況で、どうすれば可能になるかを考えたら

出来そうだなと思ったのです。

 

大阪といっても限りなく奈良に近い叔母の入院先まで

ヨチヨチ歩きで、長時間は立つことも歩くことも難しい母を

できるだけ負担なく連れて行く方法を模索したところ

 

今の母に日帰りは体力的に難しいので、

病院の近くにホテルを取って一泊すること。

 

新幹線は腰に負担をかけないようにグリーン車にして

新大阪駅でレンタカーを借りて、ホテルと病院を往復する。

 

母の希望は

もしも泊まるなら翌日も病院に行ってあげたいとのことでした。

 

レンタカーなら

その時の様子で、休憩したり、気兼ねなく後部座席で横になれるし。

 

そんな準備の最中

母の心の中は

 

すごく行きたくて会いたい気持ちと同時に

私と大好きな外出、小旅行ができることも楽しみに

していました。

 

ただその反面

自分の足腰への不安を感じていることもよくわかりました。

 

そんな時に、たまたま見つけた黄色のグラーデションのリュック。

 

前から、おしゃれなリュックが欲しいと言ってたので

見せたところ、すごく気に入ってくれて

不安から少し、モチベーションアップへとシフト。

黄色の効果(恐れ→喜び)も素晴らしい音譜

前夜から何度もこのリュックに色々とものを入れたり出したり、

背負ってみたり、ベットの横に置いて寝ていました。

当日は、晴れてこうして、大阪へと向かいました。

 

この姿からは想像できませんが、

年明けまでは腰の痛みがひどく寝たきりが続き、

赤ちゃんの使うマグマグで水分を飲ませていた程の母が、

よくここまで回復してくれました。

整形外科の訪問医からも、すごく良くなったね〜

大丈夫、大阪行ってらっしゃい

と許可をいただいて。

 

こうして今も父が守ってくれているように感じています。

 

大阪で早速病院に向かうと、叔母は大体想像していた印象でした。

 

転倒して骨折しただけで、内臓自体はどこも悪くなく

直前までは食事もちゃんととっていたというのに

骨折からほんの1ヶ月で

人はここまで変わるのかというくらいに

食事も取ることはできず話すことすらできなくなっていました。

 

この状態は

父の骨折時の経験から、私自身は想像していましたし、

 

父の場合には、2年前に、骨折した際こうなった時点で

即退院をしました。

 

家族はもちろんまずは治療のために入院を見守るわけですが

基本的には高齢者の入院は、どの人も入院のストレスから

本人の気力が途切れていきます。

 

このまま

治療を優先させて、父を自宅に戻さなかったら時間の問題だと

思い、どちらにしても帰宅させてあげようと決断しました。

 

病院の医師からは、

「まだ無理だ」と強く言われましたが

 

ケアマネと介護士さんたちが病院にきてくださり、

医師からの説明も同席してくださり、さらに父の様子を見て

「大丈夫!自宅でやろう!できる!」

と言ってくれました。

 

そう行った恵まれたメンバーだったこともあったのでしょうが

退院を強行してその後はよく食べるようになりどんどん

回復しました。

そう言った意味で

叔母にも望みはあるかもしれないと思いました。

 

彼女は

話しかければ、うなずいたり、YES NOの反応もしっかりしていて

母のことも私のこともわかっていました。

 

話せないのは

長期間食事を口にしてないことで体力と気力がなく、

話すこともしんどい事と、寝てばかりで

頭がぼーっとしてしまうのでしょう

 

また口腔ケアをかなり気をつけてあげないと

口内の乾燥がひどくて声が音にならずに発せないのです。

 

前にもブログで書きましたが

病院では一人一人にゆっくり食事を食べさせることは

不可能ですし、しばらく食べさせないと飲み込みの力が

落ちるとして、余計食べさせてはもらえなくなります。

 

叔母には息子が一人いますが

彼は今、父子家庭として幼い娘を育てているため

中々病院に通うことはできないでいました。

 

看護師さんから

口の渇きがひどいから何かケアできるものを買ってきて欲しい

と言われて、用意しましたが

口の中がかなり傷だらけで、痛みがあるようでした。

 

叔母はベットから母に向かって手を伸ばし、二人は手を握り合って

いました。

「たえちゃん、私の元気をあげるから、元気になろうね」

と声をかける母は涙ぐみ、叔母は何度も頷いて応えていました。

 

私は二日目に病院を訪れた際に

叔母の口腔ケアと食事の介助をしました。

 

口内に古い出血があり、かなり痛むようでした。

 

痰などの吸引の際に傷がつくと免疫が落ちているために

傷がひどくなります。

 

看護師さんは、家族が食べさせるぶんには

「どうぞどうぞ」という感じでした。

 

叔母に

「おばちゃんは足を怪我しただけで、あとはどこも悪くなのだから

食べて元気になろうね。口の中が痛くないように私が口に入れるから

少しづつ食べてみようか?」

 

と聞くと

 

叔母は頷いて、頑張って口を動かし、飲み込んでいました。

 

ただその様子から

かなり長い時間食べていないのだという印象を

受けました。

飲み込みの力がだいぶ落ちてしまっていて、介護士さんでも

かなり慣れた人でないと食べさせることは難しいと感じました。

 

私が近かったら、もっと早い段階で食べさせてあげることが

できたのでしょうが。

叔母が骨折していたことを知ったのも、つい先日でした。

 

母も

自分が元気なら、面倒をみてあげたいとうつむいていました。

 

叔母の長男である、従兄弟と色々話し合いました。

 

彼は経済力は全く問題ないので、アイデアさえあれば

叔母になんでもできたと思います。

 

単に、初めてだったし、気がつかなかったり知らないことも

あっただけなんだと感じました。

 

また、自宅で見てあげようとすると

かなり家族サイドに強い意志と、協力体制がないと

難しいことも事実です。

 

個々の家庭により家族構成や状況、事情は異なりますから

出来ることと出来ないことはそれぞれなのです。

 

高齢化大国と言われる日本は今

 

老老介護にならざる得ない

あるいは、子供が、最も働き盛りで介護に時間を避けない

年金内で、様々なサービスを受けることが難しいなど・・

 

問題は山積していますが

 

どの人も平等に、安心して年を重ねて行ける国に

なっていってほしいですね。

 

そして、そう行った物理的な問題ももちろんですが

子が親を見る時、やはり、親がいてくれたから

今の自分があることを忘れることなく

ご恩返しをしてゆきたいですね。

 

今回の大阪までの旅は

母にとって色々な意味で、辛い思いもありましたが

なんども

「会えてよかった、大阪まで行ってよかった」

と言っています。

 

そして

 

自分の足で大阪まで行くことができた!

という事実がとっても自信につながったようです。

 

思ったよりも疲れ知らずで、元気にしてくれています。

 

本当に子供孝行です。

 

こうして

日常の当たり前に感じていたことに感謝しながら

これからも母の笑顔が増える毎日になってゆくことを願って。

そして叔母にとっても何かしらいい変化となって

二人がまた笑顔で会えることも願わずにはいられません。

 

今回の旅を

たくさんの方々が、応援してくださったこと

喜んでくださったこと

そういった影ながら支えてくださった見えない力は

とても助けになっていたと思います。

 

この場を借りて皆様にお礼申し上げます。

 

そして、父が常に寄り添って私たちを守ってくれて

いたこともずっとずっと感じていました。

 

空にいる叔母や父、祖父母、愛する全ての方々の

サポートも感じていました。

 

本当にありがとうございました。

 

       Love花Satya