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今日、2月20日は

出雲阿国(いずものおくに)が

初めて江戸で

歌舞伎踊りを踊った日だそうです。

 

歌舞伎といえば

日本の伝統芸能として

海外でも人気ですが

 

実は、その始まりは

安土桃山時代に活躍した女性の

出雲阿国(いずものおくに)

だったんですよね。

 

歌舞伎は舞台上では原則女人禁制。

 

しかし、もともとは女性が

作ったものなんです。

 

どのようにして

出雲阿国の歌舞伎踊りが

今のような男性だけの世界になったのか

見ていきましょう。

 

出雲阿国とは

1572年、出雲国(現在の島根県)に

鍛冶屋・中村三右衛門の娘として

生まれます。

そして、なんと

日本を代表する神社

出雲大社の巫女(みこ)になります。

巫女だった彼女が

そのように躍るようになったのは、

出雲大社の修繕費用を

寄付してもらうことが

目的だったそうです。

 

そんな背景の中

出雲大社勧進のため

各地を踊りながら興行巡業したところ

阿国の踊りが評判になっていきました。

 

歌舞伎踊りについて

最初の頃(1600年)は

「クニ」という人物が

「ヤヤコ跳」を踊ったという

記録があるそうで

その

「ヤヤコ跳」といわれていた

阿国の踊りは

1603年に「かぶき踊り」を

始めたと考えられているそうです。

 

ヤヤコ跳は

幼子の遊びのような

かわいらしい踊りだったといいます。

それが

興行を続けて内に人々が

求めている踊りが変化します。

それが「かぶき踊り」です。

 

以前ご紹介した

世阿弥のお能についてまとめた本の

「風姿花伝(ふうしかでん)」の中に

「衆人愛敬」という言葉があります。

「衆人愛敬」とは、

大衆に愛されることが

一座の中心である、という意味で

「いかなる上手なりとも

衆人愛敬かけるところあらんを

福寿増長のシテとは申しがたし」

(どんなに上手な能役者であっても

大衆にあいされることのないものは

決して一座を

盛り立てていくことはできない)

 

というもので、

当時お能は「貴所」という

貴族や武家の前だけで

行うものだったのを

そういう特別な人だけに

受け入れられているだけでは

いけないと

世阿弥は考えたそうです。

 

そんなことを

阿国は肌で感じていたのでしょうね。

 

ある意味

現代にも通用するもので

いかに多くの人に賛同してもらえるか

要はバズれるか、ということを

阿国は感覚で

理解していたのかもしれません。

 

そしてこの「かぶき踊り」はのちに

遊女屋にも取り入れられることになり

男性から大人気を博したようです。

 

歌舞伎踊りとは

名古屋山三(なごやさんざ)役

の男装をした阿国と

茶屋の娘役の女装をした

阿国の夫が濃密に戯れるという内容…。

 

そして、出演者も

異性装を売り物としており

それを見た観客は倒錯感で

高揚したそうです。

 

そして出演者と観客が入り乱れ

全員で踊るなど

かなりの熱狂ぶりだったんだそうです。

 

いまでいう、ライブで演劇を見る、

という感じなんでしょうね。

 

もともと

阿国の一座は四条河原の

仮設小屋で興行を行っていましたが、

後には北野天満宮に舞台を張るほどに。

 

「当代記」では

京で人気になり

秀吉のいる伏見城に参上して

踊った記録もあるそうです。

 

また、公家の近衛家や

皇室の女性が住む御所でも

踊りを披露したとのこと…。

 

阿国の一座は

京都で人気が衰えると

江戸を含む

諸国を巡業し、

その芸を見せていきます。

こうして

大人気の一座となった

阿国ですが、

1607年に江戸城で

勧進歌舞伎を上演した後

消息が途絶えてしまうそうです。

 

遊女屋での歌舞伎

阿国が広めた

「かぶき踊り」は、

遊女屋で取り入れられ

「遊女歌舞伎」として広まります。

 

当時は様々な土地に

遊里が作られ

この遊女歌舞伎は

わずか10年ほどで全国に広まったと

言われています。

 

遊女歌舞伎は

男装した遊女と遊女の

濃密な掛け合いに、

三味線によるお囃子を追加したもの。

これは

お客にとっては

遊女を品定めする場にもなったとか…。

 

こうして遊女屋でも広まった

「かぶき踊りは」

女性たちの

「女歌舞伎」や

前髪の残る少年たちの

「若衆歌舞伎(わかしゅうかぶき)」と

進化していきますが

人気があまりにもあり、

さらにそれぞれの

ひいき同士の争いが

絶えなかったことから

 

1629年、江戸幕府により

風紀を乱すということで

幕府に禁止されてしまいます。

反骨精神からスタートした歌舞伎

禁止令ののち

少年ではなく、成人した男性が演じる

「野郎歌舞伎」が出現しました。

 

成人の証として

前髪をそり落とした

「野郎頭(やろうあたま)」という

髪型の男性による歌舞伎という意味で

「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」

と呼ばれたそうです。

 

そして

演じる内容も

歌や踊りによる、

レビューのようなものから

複数の場面で構成された

筋立てのある演劇的なものへと進展し

演者たちの技能にも

より高いものが

求められるようになります。

 

そして、

若衆歌舞伎から始まった

女性に扮して登場する

「女形(おんながた)」

という男性の俳優の役割も

確立されていくようになります・

こうして、

歌舞伎は、

演劇としての性格を強めることで

舞台芸術として

発展していくことになります。

 

どんな苦境にものりこえ

成長の糧にする反骨精神は

歌舞伎がこれまで受け継がれるうえで

欠かせないものでした。

 

そして

相撲、吉原遊郭、歌舞伎は

江戸時代の三大娯楽といわれ

一日千両の金が動くとされた

芝居を生み出し、

庶民も大名も虜にしていきました。

 

今なお続く歌舞伎の原点を作った

出雲阿国の影響力…

すごいものがありますね…。

 

明日も素敵な1日をすごしてください

 

 

ありがとう、ありがとう、ありがとう!