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今日12月11日はタンゴの日だそうです。

 

アルゼンチンの国民的英雄である

タンゴ歌手、カルロス・ガルデルの

誕生日だそうです。

 


元はブエノスアイレスのみでの

記念日であったそうですが、

2005年にアルゼンチン国会で認められ、

全国規模で実施されることとなった。

前後1週間を「タンゴの週」として、

各地でイベントが行われるそうです。

 

タンゴとは

アルゼンチンタンゴは約100年前、

アルゼンチンとウルグアイに挟まれた

ラプラタ川で生まれたと言われています。

 

当時貿易で栄えたラプラタ川周辺には、

南米の村々をはじめ、ヨーロッパ各国、

遠くはアフリカから集まった多くの人で賑わいました。

 

各国の楽器や音楽、

また舞踊や文化が入り混じり、

言葉ではない

コミュニケーションツールとして

タンゴが誕生


その後、

港の酒場で娼婦が

男性を誘惑する踊りとして広まり、

ここから男女で踊る原型が誕生します。

 

そして徐々に大衆の楽しみとして一般化して

皆がタンゴを楽しむ時代になっていき、

そこから「芸術としてタンゴを見る」

というスタイルも出来て

少しずつ形を変えながら、

今日のアルゼンチンタンゴが

確立されていったそうです。

 

2009年には

アルゼンチン共和国と

ウルグアイ東方共和国両国の

『ユネスコ無形文化遺産』に

登録されています。

 

そんなタンゴの日に

私が大好きな

ちょっと異色の二人タンゴの

アーティストを

ご紹介させてください。

 

アルゼンチンのトムウエイツ 

ダニエル・メリンゴ

メリンゴは

日本ではそれほどメジャーではなく

あまり知られていないのですが

もともとは

アルゼンチンのロックシーンで活躍した後

タンゴの世界にきます…。

黒のロング・スーツをばっちり着込み

ちょい悪おやじといった

かっこいい風貌。ラブ

 

 

迫力あるしゃがれ声で

タンゴといいながらも

酔いどれ詩人

まさにトムウエイツを彷彿させるイメージです。

 

メリンゴは

子供のころから音楽に触れていたそうです。

ブラジル歌手ミルトン・ナシメントとしばらく遊んだ後

メリンゴは軍事独裁政権下で

1980年代初冬にブエノスアイレスの独立した

演劇シーンで活躍します。

フォークランド紛争後

文化活動の制限が緩和されたとき

メリンゴは、

ビクターケッセルマンが

首謀したロックオペラ版の

「モロー博士の試練」などに参加して

注目を集めます。

 

その後スペインで時間を過ごしますが

またアルゼンチンに戻り

タンゴ歌手に転向し世界ツアーをします。

そして、英国のマスコミから

「タンゴを真剣にクールにしている男」と称賛されます。ニコニコ

 

メリンゴが目指す世界は猥雑だった時代の

タンゴの復権。

トムウエイツを彷彿させ、

ちょっとやさぐれた雰囲気が

メリンゴの特徴です。

 

 

 

 

 

ピアソラについて

ピアソラはお好きな方も多いのではないでしょうか?
 
踊るタンゴのイメージを覆し
まさにタンゴの革命児といわれた
ピアソラ…。
 
鬼気迫るようなスピード感のある曲だったり
哀愁漂うムードの曲だったり
人間の本能に直接訴えかけるような
 
とにかく聞いていると
自然と涙が出てくるような
冷たい空気の中で大声でさけびたくなるような…
まさに私には琴線に触れるような曲ばかり…

 

 

 

アストル・ピアソラは1921年に

アルゼンチンで生まれた作曲家であり

バンドネオン奏者です。

ピアソラは幼少期

ニューヨークで過ごします。
 

ピアソラの作風は

タンゴとしては奇抜であったことから

「タンゴの破壊者」と呼ばれ

保守的なタンゴのファンからは

ピアソラのタンゴは受け付けられませんでした…。

 

ピアソラのタンゴ

それまでタンゴにはなかったことに挑んだピアソラ

 

その新しい試みとは、

例えば積極的にジャズミュージシャンを

グループのメンバーに入れたり、

クラシックギターの代わりに

エレキギターを使ったりしていたのです。

たちまち、「そんなのタンゴじゃない!ムキー」と

批判の対象になりました。

 

ピアソラの生い立ち

ピアソラは、

アルゼンチンで生まれますが

4歳の時に

ニューヨークのリトルイタリーで過ごしており、

ニューヨークの空気の中で

その感性をはぐくみます。

 

「その町はバイオレンスだった

貧困と暴力があったからね。

私はそれを見ながら成長した。

 

でもニューヨークでの日々は

その先にあったものが感動的に素晴らしかったんだ

それは何かって?アル・ジョルソンやジョージ・ガーシュインが

自分の家のある角のバーで演奏していたんだよ

その街で見たものすべてが

今の自分の音楽や、人生、価値観に焼き付けられているね。」

 

その頃のニューヨークは

まさに映画ゴッドファーザーⅡの世界

 

そんなジャズと暴力の空気が漂う

世界の中で育ったピアソラニコニコ

 

ピアソラ自身

悪さを覚えて7,8歳で警察のお世話になるような不良だった。

といっています。

 

それを見かねた父親が8歳のピアソラに

バンドネオンをプレゼントし

それがきっかけで音楽に目覚めたそうです。


ニューヨークでの生活を経て

16歳でアルゼンチンに戻り、

徐々に演奏活動を始めます。

 

本格的に作曲を勉強し始めるのも

この頃からです。

 

しかし、

ピアソラは既存の枠にはまることを嫌がり

斬新な編曲を続けます。

その当時のバンドのリーダーから

駄目だしされては

音を消し、書き直しをやり直すピアソラ。

仲間のミュージシャンからも

音数が多いと文句が出始め

自分のスタイルには合わないと

グループを去ることに…ガーン

 

タンゴを書くべきか迷い、

クラシック音楽の作曲家を目指して

タンゴ作曲家であることを隠して

フランスで勉強するピアソラ。

 

しかし、指導した先生は見抜いていました。

彼のタンゴの作品をみた先生から

「これを手放さないで。

ここにあなたの音楽がある

これがピアソラよ」

 

この瞬間

タンゴの巨匠ピアソラが誕生します。爆  笑

 

踊れないタンゴ

ピアソラの曲は

他の曲のように踊ることは

不可能です。

そのため「あれはタンゴではない」といわれ

当時人々から猛反発がありました。

しかしピアソラが目指したのは

聞くためのタンゴ。

 

もし彼の幼少期に

1927年のニューヨークで

ボクサーのジェイク・ラモッタの

集団で戦っていなかったら…

 

もし

タンゴ純粋主義者から攻撃されて

いなかったら…

 

もし彼の教師

ナディア・ブーランジェが

新しいタンゴに彼を導いていなければ…

 

ピアソラのスタイルは

出来ていなかったかもしれません。

 

かれはこれらの物語の

ひとつひとつが運命だったと語っています

そしてピアソラは言いました

「私は座してチャンスを待たない!」

 

くーっ!めちゃくちゃかっこいいーラブ

 

そう、どんなことでも

良き事につながっているんですね…。

 


 

 

明日も素敵な1日をすごしてください虹

 

ありがとう、ありがとう、ありがとう!