おしゃれや綺麗なものが大好きなあなたへ

 

今日11月17日は

私も大好きなアーティスト

イサムノグチの誕生日だそうです。

 

 

イサム・ノグチというと

和紙を使った照明などで

有名ですよね…。

 

イサムノグチ

イサム・ノグチは1904年11月17日、

父親は詩人の野口米次郎

母親はアメリカ作家・教師のレオニー・ギルモアのもとに

ロサンゼルスに生まれます。

しかし、イサム・ノグチが誕生したとき、

父親は日本に帰国していました。

 

3歳で母親と日本に渡りますが

父親には、ほかに妻子がいる状況…。

さらに通っていた小学校では

差別を受けてしまいます。

 

そんな

日本にもアメリカ人としても居場所がない

イサム・ノグチは孤独感を味わうことになります。

 

そして

母親の方針で

アメリカで教育を受けることになり、14歳で渡米します。

高校卒業後はコロンビア大学の医学部に進学しますが

医学生の時、

父の知人で世界的細菌学者の野口英世から

芸術家になるよう助言をうけたようです。

 

*医学部にいるイサムノグチのどこを見て

野口英世が、どうして芸術家に向いている

と思ったのかが気になりますね!

 

そして、20歳の時、

美術学校の夜間クラス彫刻を学び始めると

すぐに才能を認められてコロンビア大学を中退。

 

医者の道を捨てて彫刻家として活動を始めます。

 

その後、奨学金を獲得して

パリにわたり、著名な彫刻家ブランクーシの助手をしながら

石彫を習得し、

ジャコメッティや藤田嗣治など

当時、パリで活躍していた芸術家たちと

交流を深めることになります。

 

*ブランクーシ 「空間の鳥」

 

ブランクーシもかっこいいですよね!

彫刻でありながら、まさに鳥が飛び立った

軌道を見るような伸びやかさがすごいです。

 

 

 

アメリカに帰国

1929年

25歳でアメリカに戻ると

肖像彫刻で収入を得ながら積極的に個展を行います。

また、31歳の時、

イサムノグチは著名な画家で

ディエゴ・リベラの妻

フリーダ・カーロと大恋愛したそうですが

しかし、ピストルをもったディエゴに追われ

結局カーロと別れたという逸話もあるそうです。

 

1941年、日本がアメリカと戦争を始めると

在米の日系人たちは難しい立場に…。

ノグチは自ら志願して、日経人強制収容所に入所し

所内の公園や施設をデザイン。

入所者に木工を教えたりしたそうですが

ノグチが出所しようとしたとき

なかなか降りなかったそうです。

そんなとき「どこにも帰属できない」という

ノグチの孤独感が一層深まったそうです。

戦後のイサムノグチ

戦後、抽象的な家具のデザインを始めると

活躍の幅はより広がっていきます。

日本にも訪れ、建築家の

丹下健三や画家の岡本太郎など

様々な芸術家と交流し

また岐阜の提灯に魅了され

ノグチの今でも人気の照明器具

「あかり」が誕生します。

そして、1951年

日本人でありながら、中国人の「李香蘭」として

デューし、敗戦時銃殺刑の危機にさらされた

山口淑子と結婚します。

彼女との結婚生活は

世界旅行やフランスに滞在するといった

国際色豊かなものでしたが

5年で離婚することになります。

 

晩年の活躍

イサムノグチはアメリカでも活躍しますが

日本人である父親とは複雑な関係でありながら、

晩年は日本でも活躍します。

 

日本では、

香川県高松市牟礼にアトリエを構え、

地元で代々石屋を営む

和泉家の三男、

和泉正敏氏と協力して

様々な石彫を制作します。

 

またアメリカでは

ニューヨークの公共空間に彫刻が

常設されたり

各大学から名誉博士号を授与されるなど

評価はより一層高まります。

そして1985年にニューヨークに

イサムノグチ庭園美術館がオープンします。

また83歳の時には

レーガン大統領から

国民芸術勲章を授与されました。

 

イサムノグチの彫刻

多岐にわたる分野で活躍したイサムノグチ。

その考え方の中心には

「身体」があったといいます。

それがわかるのは

子供の遊具にしても

ランドスケープの設計や舞台デザインでも

その根本には常に人間の身体があります。

それは、やはり芸術家になる前

医学の勉強をしたことが影響しているのかもしれません

 

また、

ノグチは「デザインと彫刻の境目はない」との考えを

もともと持っていました。

自然の摂理を読み

一見手を加えていないようでいて

しかし明らかに創作の切れ味を見せる

ノグチの石の作品を

和泉さんは「命を宿している」と感じるそうです。

 

ノグチは

「俺が俺がという、現代的で自己中心的なものではなかった

一方で

京都や奈良の石の庭とは違う空間を作ろうとした」といっています。

 

父は日本人、母は米国人という

自分自身のアイデンティティの葛藤から

生まれた寂しさや強烈な帰属願望を

創作の糧にしていたノグチですが、

 

その作品には

日本人、アメリカ人という枠や

地球上の文化という枠を超えて

「宇宙人ではないかと思う発想があった」と

いうノグチ。

「芸術は世の中の先を行かなければならないと

考えていたそうですが、

牟礼にはそれを発見できる雰囲気があったんだと思う」と

制作の拠点の一つを牟礼にした理由を語っています。

 

そして

84歳で心不全により亡くなるまで、彫刻の制作に励んでいたそうです。

 

帰属願望というのは

まさに土の時代の象徴の気がします。

 

これからの風の時代は

イサムノグチのように

大きな視点で見ることが大切なことを

教えてくれた気がしました…。

 

明日も素敵な1日をすごしてください虹

 

 

ありがとう、ありがとう、ありがとう!