おしゃれや綺麗なものが大好きなあなたへ
先日、ココシャネルのライバルとして
エルザ・スキャパレリについて
まとめてみました。
その中で、
エルザ・スキャパレリが
デザイナーとして世に出るとき
ポール・ポワレに見出されたことが
きっかけで
デザイナーになれたのですが
「ポール・ポワレ、誰よ?」って
いう人もいると思うので
今日は、ポール・ポワレについて
まとめてみたいと思います
。
Paul Poiret(ポール・ポワレ)
(1879年~1944年)
1920年初頭に活躍した
ファッションの王様で「脱コルセット」で
女性を下着から解放したと称される
デザイナーです
。
20世紀最初の20年間、
フランス人ファッション・デザイナー、ポールポワレは
ヨーロッパのファッションを支配していました。
パリにメゾンを経営していた
26年間(1903~29年)自身の優雅なドレープのドレスと
同じくらい有名な顔を持ち
真の「キングオブファッション」と称されていた人なんです。
ポワレの経歴
ポワレは一時期傘屋に勤めていましたが
その後
ジャックドゥーセのメゾンを経て、
1901年からオートクチュールの創始者の
フレデリックウォルトのメゾンに入ります。
*ポワレがキングなら
ウォルトは帝王ですかね…![]()
しかしウォルトのメゾンで
ポワレはファッション観の問題で
苦悩したといわれています。
そして、1903年、
自身のメゾン「ポールポワレ」を設立します。
そして
これまで女性のウェストを締め付けてきた
コルセットをポワレは追放します
。
これはファッション史上
最も画期的な発表の1つといわれています。
脱コルセット
子供がお姫様を描く時
スカートを大きく膨らませたドレスのイメージを
しやすいと思いますが
そのドレスは「クリノリンスタイル」という
ドレスで1850〜60年代に流行ったスタイルです。
このドレスを着こなすためには
ウエストが細いことが理想的であり
そのためにはコルセットでウエストを
ぎゅうぎゅうに絞らないといけませんでした。![]()
また、1870年代〜80年代に流行った
バッスルスタイルは、
前後に大きく膨らむクリノリンと異なり
前はまっすぐで、
後ろの腰から大きく膨らんだドレス。
横から見ると
Sの字に見える形にするには
コルセットは欠かせませんでした。
*女性が着ている後ろに大きく膨らんだドレスが
バッスルスタイルです。
こうしたドレスを着こなすための、
きつく内臓を締め付けるコルセットは
19世紀後半から20世紀初頭まで
(ポールポワレがあらわれるまで!)
一般的なことでした。
そしてコルセットをきつく締めれば締めるほど
良いものと考えられていたため
細いウエストと引き換えに
女性たちは健康を害していたのです。
ある女性は、亡くなったときウエストが33cm!
その細いウエストと引き換えにしたのが
肋骨三本が刺さった肝臓でした。![]()
また別の女性は
心臓にコルセットの一部が刺さっており、
またほかの女性は
コルセットをきつく締めあげすぎたため、
肝臓がつぶれてしまっていました![]()
。
(拷問かよ!)
このようなコルセットの普及で
内臓に異常が起こることが多く
女性たちは頭痛や息切れ、血行不良
失神など、さまざまな症状に悩まされていたんです。
*この時代の女性たちは
まさに命がけでおしゃれをしたといっても
いいのでしょうね…![]()
ヨーロッパでの着物の流行
19世紀後期のジャポニズムの流行により
欧米の人たちに広く知られることになった
日本の着物は、「キモノ」として
室内着で着用され始めます
。
さらに、日本
を題材として取り上げた
「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」
などのオペラや
1900年のパリ万博で講演した
日本の女優
「マダム・貞奴(川上貞奴)」が人気を博し、
着物姿はパリ中を魅了します。
そして
1903年頃、川上貞奴の人気にあやかって
着物風室内着「キモノ・サダヤッコ」が
パリで販売され人気がでます。
*モネ「ラ・ジャポネーズ」
ポールポワレの表現
そこに目を付けた
ポワレのアプローチは
伝統とはかけ離れたものでした。
非西洋スタイルのドレス(脱コルセット)として
着物、カフタン、チュニックなどを
参考にしながら作る作品は、
主に西洋人である自分の顧客にとっては
革命的で斬新なデザインでした。
そして
1911年には、動きやすさを追求咲いたデザイン
「キュロット・スカート」を発表します。
また、
ランプシェード型のチュニックやホップルスカートなど
ファッション業界に次々と革命をもたらします。
このように現代でも行われている
さまざまな国や文化的要素を
ファッションに取り入れる手法は
すでにポワレによって1910年代には
行われていました。
ポワレのビジネス戦略
ポワレはこれまでの
女性ファッションの既成概念を打ち壊し
ファッションの近代化を推し進めました。
そして
ポワレはビジネス的な要素に長けていた人でした。
それは通常よりも安い値段で取り扱うことで
より多くの人が買うことが出来るシステムを作って
試みたのです。
(世界一高級なウォルトのメゾンで働いていたときも
より広い層を対象とした展開を訴えたため
これにより、ウォルトと対立したといわれています。)
また、クチュールメゾンで初めて香水「ロジーヌ」を発表。
1911年、パリクチュール組合「サンジカ」を設立し
その後工芸学校の創設や
エルザ・スキャパレリなどの後人の育成、
ヨーロッパ主要都市におけるドレスの展示会や
アメリカへのモードの普及などに尽力します。
また、「Atelier Martine」という名の
インテリアショップをオープンし
コラボレーションの影響に対しても
早くも理解を示していて
ポール・入りーブやジョルジュ・バルビエ
ラウル・デュフィといったアーティストと
共同で仕事をします。
ラウル・デュフィ「バラ色の人生」
何よりもポワレ自身の個人ブランドを
宣伝するコツをつかみ
新商品や服の発表に際して
豪華な夜会を開いたりしていました。
しかし、第1次世界大戦後は
シャネルらの新鋭デザインの流れに
乗り遅れ、メゾンは衰退し
20年代の後半には
メゾンの幕を下ろすことになります。
1944年 パリにて死亡。
いかがでしたでしょうか?
ファッションビジネスの基礎を作り
女性のコルセットからの健康被害から
解放したポールポワレは
ヴィンチェンツォ・デ・コティやバレンシアガなど
数多くのデザイナーに影響を与え
ファッション業界においては
最も偉大な功績を残し
尊敬される人物といえます
。
こうした先人たちの苦労の積み重ねで
私たちの今のファッションがあると思うと
ポールポワレの功績は
本当に大きなものがありますよね。
(さらにこの功績には
日本の着物が一役買っていたと
思うと、よりうれしいですね…
)
明日も素敵な1日をすごしてください![]()
ありがとう、ありがとう、ありがとう!











