おしゃれや綺麗なものが大好きなあなたへ

 

ここのところ江戸時代の文化に

ついてまとめていて

今日も昨日の続きを書きたいと思いますウインク

 

江戸時代は、

新しい政治体制や組織、経済、

文化が生まれた時代でもありました。

 

特に江戸の中期以降は、

経済的な実権を握った町人が台頭し

幕府の奢侈禁止令の目を掻い潜った

幕府への反骨精神の象徴となる

町人文化が誕生しますウインク

 

新しい文化の登場

1.寛文小袖

染色の世界においては、

辻が花などのような着物全面に刺繍や文様が施された

贅を極めたものが衰退し

 

寛文小袖(かんぶんこそで)

といわれるものが注目されるようになります。

 

寛文小袖は、余白を活かしながら

文様を流れるように配されるのが特徴

(右肩から斜めに流れるような文様構成が多い)、

着物全面に柄や刺繍を施すものより、

 

余白を活かした寛文小袖のような

簡易で安価なものが主流になっていきます。

2.着物の柄の見本集の誕生

こうした新柄意匠と新しい衣装は、

京と江戸で「新撰御ひいながた」という、

衣裳文様見本集のようなものが続刊され、

こうした情報源が発信されることは、

呉服商人の勃興と繁栄につながりましたウインク

3.新しい業態の誕生

このような世情の中、

伊勢の松阪から出てきた三井高利(たかとしは、

長兄から譲り受けた呉服商をもとにし、

江戸日本橋本町に店舗を開き、

一般に小売りを始めるようになります。

 

それは京都の室町に仕入れ店を設けて

京都において制作される着物や帯を江戸に運び販売する

というものです。

その販売は「現金掛け値なし」を貫き通し、

一日百五十両もの売り上げをして、

日本一の商人へとなっていきます。

三井は、町人に富が広がり

かなりの人々が

余裕のある暮らしをはじめていることを知り

町人が武家や公家階級の華やかな生活に憧れを抱き、

自らも美しく装いたいという願いが芽生えていたことを

よくよく理解したうえで店を開店しました。

 

このように幕府の禁令に触れるような

豪華絢爛な衣裳ではないけれど、

出世した町人の気持ちをくすぐるような

洒落ていて、しかも

どこか華やかな衣裳が求められていきます

 

*この三井高利のお店が

なんと時代劇でよく聞く「越後屋」で、

現在の三越の前身なんです!

 

よく、時代劇で

「越後屋…おぬしも悪よの~ニヤリ」と

いかにも悪徳商人の様に描かれていますが、

大変なアイデアマンだったんです…!

4.友禅染の誕生

そんな、裕福な町人が生まれ

お洒落に興味を持ちだしたころ…。

 

京都の祇園の中にある扇屋に、

宮崎友禅斎という絵師が

扇を書いて売っていました。

友禅斎はもともとは、

日本画の絵かきでしたが、

扇絵を少しでも量産しようと、

染色に使っている米糊を使って

衣裳を表そうと考えました。

 

つまり、花や鳥などの文様を表すのに

その輪郭線を青花で下絵を描き、

糊を筒に入れてその線状におき

その周りの空白を顔料や染料を使って彩色して

華麗な絵柄を表現するという手法を使っていました。

 

友禅斎の扇は、

祇園の町を行きかう多くの人々が買っていきましたニコニコ

 

この元禄時代の文化を

多くの人が

楽しみ・娯楽を求める世情にあって、

友禅斎は

扇を量産できる技を開発する必要性があったと考えられます。

 

やがて、この友禅斉が発明した技は、

華やかな色彩で画面が美しくなることと

、目新しさとあいまって町人たちに目を付けられ、

当時流行した小袖、振袖に取り入れられていくようになります。

 

5.もう一人の天才・尾形光琳

宮崎友禅斎とほぼ時を同じくして

呉服屋雁金屋・尾形宗謙の

次男として光琳が誕生します

 

尾形光琳は、武家の力がだんだん衰え、

それに代わって

振興町人の力が興隆する時代に生まれています。

そんな尾形光琳の生家は、

時代の流れとともに傾いていましたが、

豪放な性格で放蕩三昧していたそうです。

 

しかしさすがに限界を感じ、

比較的豊かな暮らしぶりの

二条綱平という人を頼り、

伺候を繰り返す日々を過ごしながら、

画業にいそしむという日々を過ごしていたようです。

 

 

6.衣裳比べ

尾形光琳は、

二条綱平の紹介で

中村内蔵助(なかむらくらのすけ)という、

豪商に紹介されます。

 

そして、内蔵助の妻も夫君の富を背景に

ぜいたくな生活を送っていて、

あるとき、その妻から

京都の東山で衣裳比べが行われることになり、

光琳に打ち勝つ方法を教えてほしいと願いますびっくり

 

そこで光琳は、

白無垢の重ねに黒羽二重の打掛を着るよう

アドバイスをしたところ、

色彩的には地味ではあったものの、

金糸や友禅の華やかな衣装の中にあって、

黒はことさら人目を引いて内蔵助の妻が勝つ

という光琳の目論みは見事に当たり、満座の喝采を浴びたそうです。

 

*六兵衛の妻もそうですが、

やはり贅沢になると、持っているものを

人に見せびらかしたかったり、

人と競争したくなるのが、人の気持ちなんでしょうかね…キョロキョロ

 

尾形光琳は、伝統を持った呉服屋の生まれで、

そうした呉服商の栄光は過去のものとしたうえで彼は、

呉服屋としてではなく、雛形文や、

様々な工芸品の衣裳を手掛け、

現代でいうところの画家とアートディレクターを

兼ねた仕事をしていた、といえます。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

江戸時代以前は

公家や武家が文化の担い手だったのが、

戦乱の時代がすぎ、平和な時代になると

富裕層の町人がその文化を担うことになりました。

 

そして、幕府の奢侈禁止令に対しては

従うようにみせていて

実は、その目を掻い潜り

生き生きと時代を楽しみ

転んでもただでは起きない

江戸っ子たちの

心意気が感じさせる文化が誕生しました。

 

日本の文化として誇るべき文化ですね!

 

 

明日も素敵な1日をすごしてください虹

 

 

ありがとう、ありがとう、ありがとう!