おしゃれや綺麗なものが大好きなあなたへ

 

これまでは、

天海僧正による

江戸のまちづくりをまとめてみましたが

 

この江戸時代に生きた人々がどのような

文化を作ったかを

何回かに分けてまとめていきますねウインク

 

 

江戸時代は、

新しい政治体制や組織、経済、文化が生まれた時代でもありました。

 

特に江戸の中期以降は、

経済的な実権を握った町人が台頭し

町人文化が誕生して、

武家社会とは異なる独特の文化が生まれることになります。

 

 

1.初期の江戸時代

徳川家康が幕府を開いたころは、

まだ織田信長や豊臣秀吉による、

豪奢な桃山文化の名残があり、

上方の町人たちの雅な文化が残っていましたニコニコ

 

染色では、辻が花などの華やかなものが中心で

絵画の分野でも、華麗で大胆な琳派の作品や

伊藤若冲長澤蘆雪、池田雅などが独創的な絵画を創造し

狩野派とは異なる世界観を作り出し、

武家や豪商を中心とした華麗で雅な文化が継承されていきます。

*伊藤若冲 群鶏図

 

※狩野派…室町時代中期から江戸時代末期まで、

約400年にわたり活動。室町幕府の御用絵師となった、

狩野正信を始祖とし、

室町幕府崩壊後も時の権力者の絵師として活動します。

 

2.陰りが見え始めた幕府の財政状況

江戸幕府を開いてからおおよそ50年ほどが過ぎた、

4代将軍家綱の世になると、

幕藩体制は落ち着きを見せ始めるものの、

金山や銀山の埋蔵量もへり、幕府の財政に陰りが見え始めますガーン

 

これまで博多・堺・京都の商人たちは、

その時々の権力者と組み、特権が与えられ、

それを看板に商売するという形をとりますが、

幕府の財政が傾き始めると、

大名などの武家や公家が困窮するようになり、

「貸し倒れ」「大名貸し」となっていきますガーン

 

3.台頭する商人たち

地方においては農業が振興され

生産力は一段と高まりを見せ、

自給自足の生活から、

江戸、京、大阪という都市またほかの地域

販売する流通経路の充実も図られていくようになります。

そこで都会には、問屋業が生まれ

金銭をあらかじめ用意してそれらの商品を買う、

という形が広まりました。

このように江戸が独自の文化を持つようになったのは、

諸国の大名などの武士階級の財政的ひっ迫に対する、

豪商をはじめとする江戸町人の財政的台頭があげられます。

特に江戸には課税制度がなかったため、

地方から大勢の商人や農民を招来することになりましたウインク

 

4.江戸の大火

明歴三年(1657年)、

本郷丸山本妙寺から出火した火は、

江戸の町を瞬く間に焼き尽くし

江戸城本丸から三の丸まで

焼け落ちるという大惨事が起こります。

そしてその11年後に、

また江戸は大火に見舞われることになり、

華美を極めた大名の邸館や衣裳などは

灰燼に化すガーンことになります。

 

5.奢侈禁止令(しゃしきんしれい)

こうした火事などにより、幕府の財政がひっ迫すると、

幕府は倹約令を出し、

また輸入品の制限などを行う対応を取り始めます。

また武家階級の邸館・居住の簡素化や、

生活全般が質素な傾向になっていきます。

 

しかし、貯蓄と機敏な商才で富をもつ商人や町人は、

店舗を粗末に装いながら

生活内容は贅を楽しむようになりますニコニコ

 

*奢侈禁止令というのは、贅沢禁止令ということで、

町人が力を持ち始めたことに危機感を感じた幕府は

いろいろな規制をかけるようになったのですが、

その奢侈禁止令の目を掻い潜って見せる反骨精神の

「意気」から「粋」へと進化します。

 

6.おしゃれを楽しむ

特にこの時代に富を蓄えた町人たちに支えられ、

吉原遊女街が繁栄し、歌舞伎芝居見物なども流行して、

町人も外出着を意識するようになってきました。

 

7.石川六兵衛の妻

延宝8年(1660年)に将軍になった綱吉は、

あるとき、上野の寛永寺に祀られている徳川代々の墓を参拝した帰り

町家を歩いているととてもいい香りがしたので、

それに引き寄せられて行ってみると、

金の簾をかけて、金屏風で囲った女性が振り袖姿で立っていて、

周りのモノに、

伽羅の香をたかせて金の扇子であおがせているところに

出くわせます。

 

調べると、それは浅草の石川六兵衛の妻で、

六兵衛は豪商で贅を尽くした屋敷をもち、

そこに幕府の役人や大名を招待しては豪遊していて、

その妻も夫に負けず出会り、

とくに自慢の着物を着て競い合う「伊達比べ」では

負け知らずという人物

 

その妻が

聞香して遊び惚けるありさまを目にした将軍綱吉は、

贅沢極まりない所業に激憤し、ムキー

 

六兵衛を追放し、屋敷、財産を没収する、

という事件があったそうです。

 

六兵衛の妻の伊達比べ

六兵衛の妻は、当時、江戸で一番のおしゃれを誇っていて、

「伊達自慢」といわれる「衣裳比べ」はとても有名でしたウインク

 

六兵衛の妻は、京都まで相手を探し、

そこで京都一番のおしゃれ番長の

難波屋十兵衛の妻に勝負を挑みます。

 

十兵衛の妻は、

洛中図を縫い取りしてあるという小袖なのにに対し、

六兵衛の妻は、

シンプルな黒羽二重に

南天が刺繍してあるきものですが、

その南天が珊瑚を縫い付けたもので、

このアイデアにみんな度肝を抜かれ、

軍配は六兵衛の妻に上がったとのことでしたびっくり

 

8.江戸っ子気質

大火の後

幕府からの倹約令などにより、

人々の風俗も必然的に変化していくことになりますが、

しかし、火事があってもすぐ立ち直る、江戸っ子気質の

「明日は明日の風が吹く」「宵ごしの銭はもたぬ」

といった気概も、うむことになります。

 

江戸で起こった火事は、大小合わせて1798回を数え

火事は庶民にとっては当たり前のことでした。

 

庶民の家屋も、

現代の私たちから見れば、びっくりするほど

簡易なもので建てられていて

火事で焼けても再建するのは簡単でした。

 

また、当時の庶民たちの家財道具は少ないので、

必要なものだけを持ち出し逃げやすかったようです。

 

「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるように、

けんかっ早くて、派手好きな江戸っ子には

火事は一大イベントだったようですね爆  笑

 

いかがでしたでしょうか?

江戸時代以前は公家や武家が文化の担い手だったのが

戦乱の時代がすぎ、

平和な時代になると富裕層の町人

その文化を担うことになりました。

引き続き、町人が愛した歌舞伎や吉原については、

また明日まとめてみたいと思います。

 

明日も素敵な1日をすごしてください虹

 

 

ありがとう、ありがとう、ありがとう!