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昨日の5月14日は

フランスのルイ14世が

なんと4歳で

即位したそうです。

 

太陽王といわれる

ルイ14世、

どんな人だったのでしょうか。

 

1.ルイ14世

フランス・ブルボン王朝の国王(在位1643~1715年)。

「太陽王」といわれたフランス絶対王政の全盛期の国王。

 

フランスはルイ14世の当時、

人口約2000万でヨーロッパ随一の国力を持ち、

ヨーロッパ最大の陸軍力を実際に発揮して、

侵略戦争をつづけ領土拡張を実現します。

 

そして

現在のフランスの領土とほぼ同じ範囲を領土とします。

国力の充実を示す事業として、ヴェルサイユ宮殿

などを造営しました。

 

23歳で親政を宣言し、

内政、外交に自ら積極的に統治しました。

朕は国家なりと言ったとされ、

その言葉から絶対王政のあり方を示しています。

 

 

2.バロック時代の色彩

バロック時代は絶対君主の権威を

象徴する色として黄金が好まれました。

ヴェルサイユ宮殿は、「現人神」としての

ルイ14世の偉大さをよく表しています。

特に「ルイ14世の間」は

その鮮やかな黄金色の洪水は

当時の面影を十分伝えています。

 

そして、その黄金を引き立てているのは

無彩色だけではなく、専制君主にふさわしい

重厚な色がことさら必要とされ

ルネッサンス時代には見られなかった

ダーク・カラーが好まれます。

 

17世紀のブルボン王朝や宮廷の衣裳は

豪華な布地を用いられますが、

それはリヨンで数多くの絹織物がつくられていました。

そのリヨンでほとんどが臙脂色(えんじいろ)の地色に

黄金色系の柄が施されています。

 

また、同様にこのころ作られたリヨンの織物は

臙脂色以外は暗い青や紫、緑といった色が

背景色で、その上に黄金糸で柄を施され

より一層黄金が目立つように配色されていました。

 

3.ルイ14世ってどんな人
 

①風呂に入ったのは人生で2~3回だけだった

17世紀以前の

14世紀のヨーロッパではペストが蔓延し、

多くの死人が出ました。

今ではペスト菌はネズミが運ぶことが

有力な説ですが

 

当時はが原因だとされました。

あっという間に「水と湯は憎むべきもの」となり、

肌は極力濡らさないことが推奨され、

顔さえ洗わないことが当然の生活は、

実にその後約400年にも及びます。

 

また当時「裸になる」ということは、

たとえ入浴であったとしても、

非常に恥ずかしい行為だとされていました。

水を浴びるという習慣自体がなかった当時は、

香りのあるパウダーをはたいたり、

アルコールを染み込ませた布で

顔や体を拭いたりしてすごしていました。

 

②歯が1本もなかった

彼の侍医は

「歯は全ての病気の温床である」という説を

主張していました。

そのためルイ14世は、12回も手術を重ねた末、

歯を1本残らず抜かれてしまったといいます。ガーン

 

おかげで国王は限られたものしか食べられず、

上手く食べ物を咀嚼することができなくなり、

消化不良気味に。

その結果、毎日のように下剤を飲まざるを得ず、

王位に就いた数十年の間、

便意と戦い続ける羽目になったそうです。

部下はハンカチに香水をしみこませ、

その匂いに耐えていたといいますがプンプン

 

意外にも、この奇妙な国王のスタイルは、

臣下から尊敬を集めていたようで

国王を真似て、便器に座りながら

仕事をしていた者までいたといいます…

 

王様といえ

なんか…大変ですね…キョロキョロ

 

③バレエをたしなんでいた

ルイ14世はバレエに

とても造詣が深かったと言います。

幼いころから仕込まれ、

彼が4歳の時に即位した際のパーティでも、

彼自身が出演しています。

 

また1653年、

プティ・ブルボン宮で上演された

《夜のバレエ》で、14歳のルイ14世は、

最後に昇る太陽 神アポロンとなって登場。

そこからルイ14世は「太陽王」

異名がつきます。

その後も32歳までバレエの舞台に立ち、

舞踏会では41歳まで見事なダンスを披露した

と伝えられています。

 

③とても勤勉な人だった

彼はとても勤勉なことで知られていました。

生活は規則正しく、規則に厳格で、

武芸や狩猟といった体を動かすことも

好んだと言います。

その勤勉さから「官僚王」とも呼ばれました。

 

④身長が低いことを気にしていた

ルイ14世は身長が160cmほどしかなく、

身長が低いことによって王の威厳が

そこなわれることを非常に気にしていたと言います。

そのため、ウィッグ(かつら)を着用するときも

必要以上にフサフサに仕立ててみたり、

靴もハイヒール(ルイヒール)を履いてみたりしていました。

美脚は大自慢だったようです…。

実際、肖像画を見てみても、

高いかかとの靴を履いているのがわかります。

*だれでもコンプレックスはあるんです…。
 

⑤ ファッションにおけるインフルエンサー

ルイ14世はファッションでもインフルエンサーです。

特にウィッグはこの後引き続き使用されていきます。

 

・ウィッグ

これはルイ14世ご自身の髪が薄かったことを

隠すためといわれていますが

ウィッグが登場して間もなく

背中に垂れる長さの

「フルボトム」のウィッグが

権威の象徴となり、教養のある紳士は

ウィッグなしで人前に出ることはしなくなります。

髪は剃ってしまうか、ごく短く切っていたようです。

 

なお労働者階級は、ウィッグは

高価なうえ、うっとおしいため

被ることはせず、自分の髪を

長くのばしていたようです。

 

⑥「ダイヤモンドの価値観を世に広めた

当時、最高の宝石といえばパールでした。

ルイ14世は、その時代に

ダイヤモンドのカット技術が向上したのもあって、

ダイヤモンドを非常に好んだとされています。

そのおかげで、パールよりも

ダイヤモンドの方が値段があがったのです。

今こそ「ダイヤモンド」といえば

最高の宝石というイメージがありますが、

これにはルイ14世の影響があったのです。

 

3.モードの国フランスの礎を作った時代

フランスファッションは、

イタリアに素材を依存していたスペインファッションと違い、

最初から国内のモード産業による利益を意識していました。 

 

財務総監のフランスのモード産業の基礎を築いた

コルベール(1619~1683 ラシャ商人の家に生まれる)は

輸出を奨励して国内産業を保護する、

典型的な重商主義政策を推進し、

ブルボン絶対王政の繁栄をもたらします。

具体的には従来の毛織物・絹織物・絨毯・

ゴブラン織などの産業に加えて、

兵器・ガラス・レース・陶器などの

産業を起こし、国立工場を設立し、

特権的なマニュファクチュアを育成します。

その一方では労働者の同盟とストライキは

禁止されました。

 

コルベールは

「フランスにとってのモード産業は

スペインにとってのペルーの銀山である。」

モード産業の重要性をすでにこの時代に述べています。

 

1667年には、

諸国の王や貴族の美麗な衣装への要求を満たす、

リヨン王立織物製作所と王立レース工場が

相次いで設立されます。

また、華麗な衣装に不可欠な

シルクのための養蚕業が

このころリヨン近郊の農村を中心に

軌道に乗ります。

 

この時代、フランスでは1672年に

最新ファッションの版画を載せた

世界初のファッション誌

『メルキュール・ギャラン』が創刊され、

パンドラと呼ばれるマネキンに

(正装の大パンドラと日常着の小パンドラの二種がある)

パリの最新流行の衣装を着せて

ヨーロッパ中に送り最新モードを知らしめます。

 

この時代のメンズファッションは

兵士の外套から発展した

ジュストコールという上着、

部屋着として

丈の長い長袖の中着

ヴエストが着られるようになり、

防寒のために、

ゆったりしたパンツスタイル

つまり

ジュストコール・ヴェスト・キュロットの一式が

確立し始めます。

 

今のジャケット、ヴェスト、パンツの原型ですねてへぺろ

 

また、ルイ14世は

クロアチア人の傭兵が

首に巻き付けている布きれに

興味をそそられます。

この布きれは、故郷の恋人や母親が、

戦士の武運と身の安全を祈る

「お守り」として託したものでした。

それをルイ14世が真似して

巻き付けるようになったこの布きれは、

フランス語でクロアチアを意味する

「クロバット」と呼ばれ、流行し始めます。

当時は身分の高い人ほど、

複雑なノット(結び目)で着飾ったのです。

今日的な意味でのネクタイの誕生です。

 

いかがでしたでしょうか?

太陽王といわれた

絶対君主の象徴ルイ14世。

現代から見るとなかなか

大変な気もしますが…。

この時代からフランスは

現代に通じるおしゃれの原型が

作られていったんですね…。


明日も素敵な1日をすごしてください虹

 

 

ありがとう、ありがとう、ありがとう!