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今日、4月2日は

ドイツのアーティストの

マックス・エルンストの誕生日です。

エルンスト

コラージュを初めて行った

作家で有名です。

 

私が、以前

彫刻に携わる仕事をしていた時に

ちょうどその会社を退職する直前

その会社でエルンスト展を

行ったのですが

そのエルンスト展を

担当をさせていただいたので

とてもご縁を感じる作家なのです。

そんなマックス・エルンストについて

見ていきましょう。

マックス・エルンストって?

ドイツの画家で彫刻家、

グラフィックアーティスト、詩人。

ダダおよび

シュルレアリスム・ムーブメントの

開拓者で

ケルン・ダダの創始者です。

 

正規の美術教育を受けていない

エルンストですが

1921年にコラージュ作品を発表して

その技法は大きな影響を与えます。

コラージュ

コラージュは、

最近色々な場面で見ることが多い技法のひとつだと思います。爆  笑

 

異なる素材を組み合わせて

新しいイメージや性質を作成する技法で、「錬金術」といわれることも…。

 

と、、言葉にすると難しい感じですが

要はこんなイメージです。

コラージュ 1

コラージュ 2

 

 

コラージュは、イメージ表現に

適しているので

そのイメージを視覚化するため

雑誌や新聞の気りぬきや

リボン、絵、写真など

自分がイメージしたい

さまざまなものを集めて

1枚の紙にまとめるもの…。

 

パーソナルカラーなどで

4タイプのイメージを

伝えたいときなどにもよく使います。

例えば、このイメージ画像で

口紅やアイシャドーなど

より実際のイメージをつかみやすくするため

切り張りした写真などに置き換えたものなどは

よく雑誌などでもみかけますよね…

 

そのエルンストのコラージュの代表作では

「百頭女」や「カルメン修道会にはいろうとしたある少女の夢」

といった物語とコラージュを融合させた

コラージュ・ロマンシリーズが有名です。

 

 

ダダ・シュルレアリスム

そもそもダダとか、シュルレアリスムって何?って感じですよね。

 

19世紀末の印象派から始まった

*モネ 印象ー日の出

 

見たものを見たままに描くという古典的な手法の脱却から

 

さまざまな表現方法を編み出され

 

ピカソによるキュビズムや

*ピカソ「母と子」

 

カンディンスキーによる抽象絵画などの表現が編み出されます。

*カンディンスキー「優勢な曲線」

 

そしてそれは

形やテーマを伝えるものから

さらに精神を伝えるものに変容していった表現になります…。

 

そんな抽象絵画は絶対絵画といわれ

絵でしか表せないもの

言葉では置き換えられないものを目指したのですが

 

ダダイズムでは

ついに「何が芸術で何が芸術でないか」と

いった問題を提示したものです。

 

特に一大センセーショナルを巻き起こしたのが

1917年

画家のマルセル・デュシャンによる

普通の男子用小便器を

「リチャードマット」と署名をした

「泉」と題して

アートとして発表したもの。

*マルセル・デュシャン「泉」

 

これは当時、当然物議をかもしましたびっくり

 

まぁ、今でも展覧会で

便器があったら…

普通にびっくりですよね…

 

そして

ダダという名前も

たまたま手にした辞書の1ページから

ダダ」の言葉を用い

こうした

芸術概念の否定の運動を「ダダイスム

と称することになります。

 

このようにダダは、

従来の伝統的価値の破壊や

芸術概念のすべてを否定、破壊し

 

そのうえで偶然性を採用するという

衝動運動でしたが

 

結局その行き着いたところは

自分も否定するという袋小路でした。

 

そしてさらにその先は

無意識という世界に救いを求める「シュルレアリスム」

誕生することになります。

 

シュルレアリスム」は

フランスの詩人ギヨーム・アポリネールが

戯曲「ティレジアの乳房」を

「シュルレアリスム劇」と命名したことで

シュルレアリスム」という名前が付いたといわれます。

 

 

 

つまり、そうした表現方法が行きつくところまで行った先の

表現を編み出した表現者たちの一人が

マックス・エルンストなわけですね…。

 

そして、マックス・エルンスト

アメリカアメリカの抽象表現主義に

多大な影響を与えた人でもあります。

マックス・エルンスト

マックス・エルンストは、ケルン近郊のブルーニュで生まれます。

父はブルーニュで聾唖学校の教師かつ

アマチュアの画家だったフィリップ・エルンスト。

 

彼は敬虔なクリスチャンでしたが、権威に反発することを好み

自然の中で絵を描いたり、スケッチをしていたそうで

その父親の姿がマックスに強い影響を与えたといわれています。

 

マックス・エルンスト

1909年にボン大学に入学し、

哲学や歴史、文学、心理学や精神医学を学び

精神病院を訪れた際に精神病者の絵画に感銘を受け

マックス・エルンストも絵を描き始めます。

当時は地元のブリュール城を書いたり、

妹や自分のポートレイトを描いていたそうです。

 

表現主義との出会い

1911年に表現主義のアウゲスト・マルケと知り合い

彼が主催する芸術家集団「ライン表現主義者」のグループ展に

参加をし、芸術家になることを決意したそうです。

*アウグスト・マルケ「青い馬」

 

また1912年にケルンの「ゾンダーブント展」を訪れ

そこでピカソやゴッホ、ゴーギャンといた

キュビズム・後期印象派の影響を受け

画家になることを決意します。

 

そして1914年、

ケルンにてダダイストの「ハンス・アルプ」と出会い

二人は意気投合し、

その後死ぬまでアルプとは交友を続けることに

なります。

*ハンス・アルプ

 

第一次大戦後のエルンスト

1919年にポウル・クレーと

ジョルジュ・デ・キリコと出会い、

影響を受け

 

デ・キリコに捧げたコラージュ作品

「流行は栄よ、芸術は滅ぶとも」を制作し

このコラージュの技法がマックス・エルンストの

表現方法の主流になります。

*エルンスト「流行は栄よ 芸術は滅ぶとも」

 

さらにポール・エリュアールやアンドレブルトンなどの

シュルレアリストたちと交流するようになります。

 

奇妙な三角関係

1922年、エルンストは必要な書類を入手できず

フランスに不法入国をすることになります。

そこで、ポール・エリュアールと

その妻ガラ・エリュアール(のちのダリの妻)の

3人暮らしの住居を構えることになります。

 

そのパリでの最初の2年は

エルンストは様々な仕事に就きながら絵を描き

1923年にエリュアールはパリ近郊の

エルモンの新しい家に

移動するとそこでエルンストは壁画を沢山描き、

サロン・デ・アンデパンダンに出品します。

 

エリュアールは当初、

ガラとの多重恋愛を認めていましたが

その情事に心配になり始め

エリュアールは不意にモナコに失踪し

更にベトナムのサイゴンに失踪します。

そして

エリュアールは、ガラとエルンストにも

サイゴンへ失踪するように呼びかけ

二人は膨大な数の絵画を売り払い

それを旅費にし、サイゴンで合流します。

その後は

ガラは

エリュアールと婚約状態のままにして

エルンストが離れることになったそうです。

 

フランスでのエルンスト

フランスに戻ったエルンストは様々な技法を生み出します。

1925年に物質の上に紙を置いて鉛筆でこすって模様を浮かばせる

「フロッタージュ」や

*フロッタージュ技法

 

絵画を載せたキャンバスを物質の上に置き

絵画をパレットナイフなどで削り取ることで模様を浮かばせる

「グリッタージュ」

また

2つの面の間に絵具を押し込む

「デカルコマニー」の技法など様々な技法を試みます。

*デカルコマニー技法

 

そして1929年、最初のコラージュ・ロマンの

「百頭女」を刊行しエルンスト

鳥キャラクターの「ロプロプ」が登場します。

*エルンスト「ロプロプがロプロプを紹介する」

 

このロプロプについては

絵の中の鳥はエルンスト自身のエゴを表し、

ロプロプとは鳥と人間の初期の混乱から起因する

自分自身の延長のもので「分身」もしくは

「守護霊」のようなものといっています。

 

第二次世界大戦

1939年に第二次世界大戦がはじまると

ドイツ人のエルンスト

「敵対的外国人」として逮捕されてしまいます。

 

その後解放されますが、

ナチスが侵攻すると

今度は「退廃芸術」に相当するとして

ゲシュタポによって

マックス・エルンスト

また再逮捕されてしまいます。

 

その当時

愛人のシュルレアリストの作家

レオノーラ・キャリントンと暮らしていましたが

逮捕されたエルンストが戻ってくるかわからず

レオノーラは家を売って借金を返し、

スペインに旅立つしかありませんでした。

 

グッゲンハイムと結婚

1938年、アメリカのアートコレクターのペギーグッゲンハイムが

マックス・エルンストの作品を大量購入。

さらにペギー・グッゲンハイムの力で

エルンストはアメリカに亡命することが出来、

1942年から1946年まで

マックス・エルンストとペギーグッゲンハイムは

結婚生活を送ることになります。

 

そしてそのことを知った

愛人のレオノーラは精神的錯乱状態になったそうです。えーんえーん

 

アメリカ抽象表現主義への影響

こうしてアメリカアメリカ

ペギーとの結婚生活により

マックス・エルンスト

デュシャンやシャガールなど

戦禍を逃れてアメリカに移住した

多くのヨーロッパのアーティストと

ニューヨークで暮らすことになり

エルンストは、

その後のアメリカの抽象表現主義の発展に

多大な影響を与えることになります。

 

 

ペギー・グッゲンハイムと離婚したエルンスト

ドロテア・タニングと恋愛し

1946年、ビバリーヒルズで

マンレイ、ジュリエットブラウナーたちと

合同結婚式を挙げることになります。爆  笑

 

1946年から住んだ

アリゾナ州セドナでは

高い砂漠の風景にインスピレーションを受け

よりエルンストのイメージを沸かせます。

そんな人里離れたセドナでの生活をしている中で

彼らの存在が後に

アメリカの芸術家コロニーとなるものの始まりになります。

 

 

そして1948年、

エルンストは絵画以外に美術論文も書き

セドナ滞在中に「絵画を超えて」を編集。

 

また彫刻の傑作「カプリコン」を完成させ

この本とその宣伝の結果

エルンストは経済的な成功をおさめることになります。

 

晩年

1953年にエルンストとタニングは

南フランスの小さな町に移住しそこで仕事を続け

1976年4月1日パリでエルンストh84歳で亡くなります。

 

エルンストは彫刻をつくるとき

「私が絵画制作で袋小路に迷い込んだと感じると

(それはどんな画家にも

起こりえることだが)

彫刻がその行き詰まりからの

脱出口として

残されていた

なぜかというと

彫刻は海外以上に遊びとしての

性質が強いからだ。

彫刻制作の帰還は

私にとっては休暇の期間のようなものなのであり

それが過ぎると

私は絵画制作へと立ち返ることが出来た」

といっています。

 

いずれにしても、作品を作ることが

大好きだったんですね…、

 

まとめ

いかがでしたでしょうか…、

もう、エルンストの人生そのものが

シュルレアリスムであり

彼がアメリカ抽象表現主義へ与えた

影響の大きさ

また、

今やアーティストではなくても

一般の人でも自分の表現として行っているコラージュを

初めて世に生み出した人

*エルンスト「都市の全景」

 

そんな

マックス・エルンストの功績は

もっと日本でも知られてもよいと

私は感じています。ニコニコ

 

明日も素敵な1日をすごしてください

 

 

ありがとう、ありがとう、ありがとう!