彼とは絶対に会わない。そう誓いを立てた日から約2年が過ぎた。
友人A子と彼の仲は順調のようだった。
A子は外資系に勤めるキャリア志向の高給取り。
年に2回 二人、海外旅行に行く。
グランドキャニオン、スペインのグラナダ、ナイアガラの滝。
A子からその度にお土産をもらい、記念写真を見せてもらう度
これで良かったと、何度も言い聞かせた。
時々、A子は3人で会おうよ。提案されたけど、全て断った。
私の中で彼に会うことは、ただ恐かった。
うまく言えないけど、怯えがあった。
だから、彼とA子が約2年を経て、結婚を前提に一緒に暮らし出す話を聞いた時
ああ、やっとこの怯えから逃れられる。
心から安堵した。彼とA子は揺るぎない。もう大丈夫。そう思ったのだ。
だから、引っ越しの後、新居に招かれた時、
久しぶりに気持ちがはずんだ。
素敵なマンションだった。都心で高層。日当たりも間取りも充分。
まるで、モデルルームみたいなマンションだった。
約2年ぶりに会った彼は少し頬はこけて痩せたせいか、
2年前よりも眼光が一層鋭かった。
それでも、3人で久しぶりに話がはずんだ。
楽しかった。
今までの怯えは全て取り越し苦労なんじゃないかと思うほど。
自分の思い込みを反省した程、楽しかった。
1カ月後、A子から古いパソコンを譲ってもらう事になった。
アナログでパソコン初心者の私に、A子は言った。
「教えてあげる。明日、家に来て」
蒸し暑い夏の日だった。
彼女の好きな桃を手土産に持った。
チャイムを押す。
出てきたのは彼だった。
「A子な、緊急の仕事が入って会社に向かってん。とりあえあず中で待ってればええよ」
2年前と変わらず、静かな口調だった。
彼は紅茶を入れてくれて、飲みながらたわいもない話をした。
けれど、内心、困っていた。
ちっとも、会話がはずまない。
彼は時折、のぞきこむように黙って私の目を見る。
それは何かを見透かすような強い視線だった。
2年前のあの怯えがザワザワと胸に押し寄せてきた。
「桃 食べる?」 気まずさを払拭するように台所にたった。
これを食べたら帰ろう。
そう思いながら、桃の皮にフルーツ包丁を入れた。
本当は手でむける位 熟していたけど、体裁で包丁を握った。
その桃が突然、床に落ちた。背後から彼に抱きすくめられたからだ。
「何であの時、連絡せえへんかった?」
「離して。」
「嫌や。答えたら離したるわ」
フルーツ包丁を突き立てたまま、私は言った。
「離さないと、刺さるよ。」
「刺せば?刺せばええ。質問に答えろや。」
頭に血が登った
。もう一つ皮を剥いた桃を手につかむと彼の顔に思いきり押しつけた。
「嫌いだからよ」
彼の顔は桃の果肉と果汁まみれになった。
怒るに違いない。
けれど、次の瞬間の彼の表情は驚いたことに笑顔だった。
床に落ちた桃を素早くつかむと今度は私の顔に押しつけてきた。
「お返しや。俺は待ってたんやで。アンタは嘘つきや。
その顔で嫌い? 違うやろ?俺もアンタみたいな面倒臭い女、嫌いや。」
満面の笑顔。恐かった。
この男に私は壊される。
顔も髪も桃の果汁でベトベトになった。
私は親友の彼氏と一体、何をやっているんだろう?
A子の靴が目に飛び込んできた。
ここは、A子と彼のマンションだ。
「自惚れてる。大嫌い。」
そう言い放つと、ドアを開けマンションを飛び出した。
駐輪場に止めてた自転車のペダルを思い切り踏んだ。
さっきまで、グレーだった曇天から大粒の一滴、二滴。
そして、激しい夕立になった。
2年間、沈黙を守ったのに、もう大丈夫だと思ったのに、
色んな思いが脳裏をめぐった。だけど、その時の心境を今でもはっきりと
覚えている。
本当は好きだったとか、そんな甘くて切ない甘美な想いは微塵もない。
抗えない恐怖だった。彼に出会った瞬間からわかっていた。
お互い、本能で魅かれあうのだ。
けれど、むき出しの本能でぶつかりあうことが、どんなに危険かそれも察知している。
自分が自分でなくなる。一歩間違えると狂ってしまう。
だから、防衛本能で避けてたのに。
A子を盾にして、道徳だとか常識の概念でごまかしていただけ。
自分は本能に逆らえない程、彼を欲していた。
そう あの男に私は 今までの常識や縛りつけられている固定観念を全て壊して欲しかった。
彼なら 全て破壊してくれる。それが出来る男。
だから 恐かったのだ。
雨が一層、ひどくなった。
自転車から降りた私は古いオカルト映画に出てくるキャリーみたい。
全身ずぶ濡れだった。
ふとガラスのウィンドウに自分の姿が映った。
髪にも頬にも、桃の甘皮がはりついていた。ひどい有様だ。
だけど、目だけが、彼の指摘したその目だけが、ギラギラと別人のように光っていた。
恐怖に怯えているはずなのに、
その目だけはギラギラと獲物を狙うように光る。
確かに 私は大嘘つきだ。
無毒を装いながら、毒針をもつ卑怯な蜘蛛女みたいだ。
同じ毒針を持つ あの蜘蛛男に本当は 頭からバリバリと喰われたい。
すれ違う人達が、気の毒そうな目で私を見ては通り過ぎる。
端から、見たら私は、ずぶ濡れの傘を持たない気の毒な頭のおかしい人。
さっさと家に帰り、シャワーを浴び、
新しい服に着替え何事もなかった顔をすればいい。
今までもそうしてきた。危険な事は全て避けてきたはず。
それが、正しいこと。道に外れないこと。
嘘。そんなこと 私は望んでいない。
壊されたい。それが 望み。
それに気付いた瞬間
ケタケタと、笑いがこみ上げてきた。
自分で嘘の自分を演じることが、馬鹿馬鹿しくて仕方ない。
押さえこんでいた心のダムが一気に崩壊した。
道徳や常識がガラガラと崩れおちて、キャタピラーがそれを粉々に押しつぶしていった。
そして、眠っていた本能が ゆっくりと剥きだしになる。
キャミソール型のオレンジ色の長いワンピースを着ていた。
脇にある小さい児童公園。
スカートの裾をたくしあげ、はいていた下着を一気に脱いだ。
丸めて、公園の茂みに向かって投げ捨てる。
そのまま、自転車をUターンさせた。
必死に登っていた坂道を
あのマンションの方角へ、ブレーキもかけずに一直線に下る。
細い銀色 光る糸 たぐりよせられるように。
あの蜘蛛男の 手のなるほうへ。