歴史ナビゲーター 井上政典
平成22年10月24日と25日で沖ノ島の特別参拝を企画し、総勢30名の方にお集まりいただき、無事参拝を終えました。
7月にご縁を頂き、今回は二度目の参拝となりました。前回は、受け入れてもらえて嬉しいという喜びでしたし、今回は「再会できた喜び」にあふれた二時間でした。
7月にご縁を頂き、今回は二度目の参拝となりました。前回は、受け入れてもらえて嬉しいという喜びでしたし、今回は「再会できた喜び」にあふれた二時間でした。
この宗像大社は古事記に出てくる唯一の神社で、天照大神とスサノオノミコトの誓約(うけひ)によって産まれた宗像三女神様たちは、それぞれ辺津宮、中津宮、沖津宮に祀られています。
辺津宮と中津宮は誰でもいけますが、沖津宮だけは、特別な許可がないと入ることができません。日本の国難に際し大和朝廷が国の宝をお供えして神の言葉を聴いた場所でした。そこで一度神様に供えたものは決して人間の手で触れてはならないという掟が1600年以上にわたって厳格に守られてきました。
辺津宮と中津宮は誰でもいけますが、沖津宮だけは、特別な許可がないと入ることができません。日本の国難に際し大和朝廷が国の宝をお供えして神の言葉を聴いた場所でした。そこで一度神様に供えたものは決して人間の手で触れてはならないという掟が1600年以上にわたって厳格に守られてきました。

沖ノ島上陸心得(沖ノ島埠頭に立てられていました。)
大東亜戦争後機械船の発達と、沖ノ島に国際避難港としての役割を担わされたために、神の島が心無い人たちに荒らされないように、やむなく昭和29年から3回にわたって調査団を組織し、その神宝を辺津宮にある神宝館に収納し保管しました。その数約8万点。すべてが国宝となっており、これが海の正倉院と云われる由縁であります。
大東亜戦争後機械船の発達と、沖ノ島に国際避難港としての役割を担わされたために、神の島が心無い人たちに荒らされないように、やむなく昭和29年から3回にわたって調査団を組織し、その神宝を辺津宮にある神宝館に収納し保管しました。その数約8万点。すべてが国宝となっており、これが海の正倉院と云われる由縁であります。
前回は、降って湧いたご縁にしたがって参拝しましたが、今回は自分で企画し、すべてのものを手配し、参加される方々の人選を行い、旅行計画を立て実行して行ったものですから、再び受け入れていただいた事にたいへん感動し、感謝しています。
今回沖津宮に上陸させていただき感じた事は「懐かしい」という感じでした。前回もどこか懐かしいという思いがあったのですが、今回私はここに属しているという感じがしました。これは、私の独りよがりかも知れませんが、皆さんをここにお連れすると云うお役目を頂いたということを実感したのです。
「おまえが日本のことを憂いている方々をお連れし、日本の魂の原点は何かをそれぞれの人に感じてもらうように」といわれている気がしました。
「おまえが日本のことを憂いている方々をお連れし、日本の魂の原点は何かをそれぞれの人に感じてもらうように」といわれている気がしました。
そのためか今回も曇り空でしたが、無事出航できました。というのも玄界灘は波が荒いので有名で、安全性を考え、中止の可能性も十分にあったのです。沖ノ島に常駐する神官でさえも、勤務交代時、上陸できる確立は5割だそうです。そして週間天気予報は、雨となっており、一週間前からやきもきしていました。
ただ、団長の長谷川裕一氏と私は無類の晴れ男で、このコンビで企画したもので中止になったことは一度もありません。さらに今回参加していただいた方々は日本が大好きでこの国の将来を憂う方ばかりだったので、こういうメンバーを連れて行くのに拒まれるはずが無いと思っていました。
ただ、団長の長谷川裕一氏と私は無類の晴れ男で、このコンビで企画したもので中止になったことは一度もありません。さらに今回参加していただいた方々は日本が大好きでこの国の将来を憂う方ばかりだったので、こういうメンバーを連れて行くのに拒まれるはずが無いと思っていました。
平成22年10月24日(日曜日)の午後一時に宗像大社の駐車場で集合し、まずは儀式殿に養父名誉宮司様のお計らいで入れていただき、沖ノ島の重要性や発掘の様子などをご説明いただきました。そして、普段は決して一般の方には公開されない皇室の方の休憩所「便殿」を見学させていただきました。この便殿は靖国神社の建物を養父様が宮司の時に譲り受けたもので、部屋自体が高貴な香りに包まれているようでした。

御便殿
神宝館を見学し、所用のあった長谷川会長や中島さん間さんらも合流し、全員で自己紹介をしました。予め名簿を作っており、簡単なキャッチフレーズは書いておりますが、それぞれユニークな挨拶で場が盛り上がりました。そしてそれぞれ方々の紹介が終るたびに、今回集まったメンバーが並みの方々ではないということが皆さんにも通じたようでした。
3時半から、在野の歴史研究家生野眞好さんによる、「日本といつから呼ぶようになったか」という題目で講演いただきました。生野さんは、野人ながら三国志原文を読破し、作者の陳寿の目線で読み解かれ本を出版されています。更に日本記(日本書紀とは間違い)の研究をされ、来年出版の予定です。私がこの人の話をもっと広めたいと思い講演をお願いしました。皆さんの反応は大きく、養父名誉宮司はこの話は他の神社ではできないだろうとおっしゃっていたほど、衝撃的な内容でした。この中身に関しては別の機会にご紹介します。
神宝館を見学し、所用のあった長谷川会長や中島さん間さんらも合流し、全員で自己紹介をしました。予め名簿を作っており、簡単なキャッチフレーズは書いておりますが、それぞれユニークな挨拶で場が盛り上がりました。そしてそれぞれ方々の紹介が終るたびに、今回集まったメンバーが並みの方々ではないということが皆さんにも通じたようでした。
3時半から、在野の歴史研究家生野眞好さんによる、「日本といつから呼ぶようになったか」という題目で講演いただきました。生野さんは、野人ながら三国志原文を読破し、作者の陳寿の目線で読み解かれ本を出版されています。更に日本記(日本書紀とは間違い)の研究をされ、来年出版の予定です。私がこの人の話をもっと広めたいと思い講演をお願いしました。皆さんの反応は大きく、養父名誉宮司はこの話は他の神社ではできないだろうとおっしゃっていたほど、衝撃的な内容でした。この中身に関しては別の機会にご紹介します。
4時からあたりはだんだん薄暗くなってきましたが、辺津宮での正式参拝を無事におえました。いよいよ明日の沖ノ島へ渡る準備が始まったのです。この辺津宮の市来島姫は宗像三女神の三女であり、中津宮は次女、そして沖津宮の田心姫は長女となられ、下から順番にお参りしていくのが正しい順番とされています。

辺津宮
各自の車で神湊(こうのみなと)のフェリー乗り場へと移動し、5時10分発の大島行きの船に乗り込みました。このときの人数は27名です。
夜の帳が下りて霧雨が降る中、中津宮の正式参拝をしました。社殿の中の灯りが霧雨の中を茫洋と照らし、幽玄な美の世界を見ているような中、厳かに粛々と正式参拝が終わりました。あたりはすでに真っ暗になっていました。
各自の車で神湊(こうのみなと)のフェリー乗り場へと移動し、5時10分発の大島行きの船に乗り込みました。このときの人数は27名です。
夜の帳が下りて霧雨が降る中、中津宮の正式参拝をしました。社殿の中の灯りが霧雨の中を茫洋と照らし、幽玄な美の世界を見ているような中、厳かに粛々と正式参拝が終わりました。あたりはすでに真っ暗になっていました。

中津宮
民宿つわせのご主人さんに迎えに来てもらい、マイクロバスで島の北側に移動し、民宿に到着しました。民宿ですので、部屋はザコ寝となり、長谷川会長をはじめとするお歴々の方々も仲良く布団を隙間無く敷いて寝るようになっています。まるで修学旅行を思い出しました。
午後7時、いよいよ夕食です。あら鍋です。これはクエという高級魚の事で博多ではあらといいます。新鮮な魚の豊富な福岡市民でもめったに食べられない幻の高級魚でそれを鍋に張った水に骨の付いた部分を入れた瞬間に表面にパァーと油が広がるのが分かります。
午後7時、いよいよ夕食です。あら鍋です。これはクエという高級魚の事で博多ではあらといいます。新鮮な魚の豊富な福岡市民でもめったに食べられない幻の高級魚でそれを鍋に張った水に骨の付いた部分を入れた瞬間に表面にパァーと油が広がるのが分かります。

あら鍋料理
今回の最年長福岡ニットの圓藤会長76歳の発声で宴会が始まりました。長谷川会長の差し入れで高級日本酒「永遠の今」が振舞われ、さらに冬至さんと大塚さんの宗像の友人の差し入れで「沖ノ島」という銘酒も振舞われました。おいしく料理をいただき、お酒やビールをたらふく飲んでみんなで上機嫌で記念写真を取りました。
今回の最年長福岡ニットの圓藤会長76歳の発声で宴会が始まりました。長谷川会長の差し入れで高級日本酒「永遠の今」が振舞われ、さらに冬至さんと大塚さんの宗像の友人の差し入れで「沖ノ島」という銘酒も振舞われました。おいしく料理をいただき、お酒やビールをたらふく飲んでみんなで上機嫌で記念写真を取りました。
その後も産経新聞の誇る安全保障の専門家、野口裕之九州山口総局長を囲みながら日本の安全や尖閣問題について、民宿の方からそろそろ寝てくださいといわれるまで熱く語っていました。
しかたなく千鳥饅頭総本舗の原田広太郎君と仲良く風呂に入り、『尖閣諸島に上陸しましょう』などと先ほどの余韻の残っているためか風呂の中でも熱く語っていました。
しかたなく千鳥饅頭総本舗の原田広太郎君と仲良く風呂に入り、『尖閣諸島に上陸しましょう』などと先ほどの余韻の残っているためか風呂の中でも熱く語っていました。
その後、開いている布団にもぐりこみました。というのも、ずぼらな性格の私は、いちいち布団の場所を指示するのも面倒だったので、いびきが酷いという人だけ隔離し、後は好きなところに寝るように言っていたため、最後に寝ることになった私の布団をどうにか見つけたのです。
しかし、告知義務違反をした同室のMNさんのいびきと歯軋りと寝言で殆ど眠れませんでした。ただでさえ連れて行けるだろうかという緊張の夜を過ごしているのに、そこで怪音による攻撃でなすすべも無く笑うしかありませんでした。その笑い声を聞いた生野氏も眠れなかったと翌朝ぼやいておられました。
間さんは、SHさんの寝相の悪さに2時から起きて本を読んでいたそうです。これも、修学旅行の思い出の一つです。
しかし、告知義務違反をした同室のMNさんのいびきと歯軋りと寝言で殆ど眠れませんでした。ただでさえ連れて行けるだろうかという緊張の夜を過ごしているのに、そこで怪音による攻撃でなすすべも無く笑うしかありませんでした。その笑い声を聞いた生野氏も眠れなかったと翌朝ぼやいておられました。
間さんは、SHさんの寝相の悪さに2時から起きて本を読んでいたそうです。これも、修学旅行の思い出の一つです。
沖ノ島特別参拝記 田心姫様と再会を果たすの巻(2)に続く