鎌倉にて…
その老人は大事そうに薄く潰れた年季の入った皮のカバンを膝の上にだきながら珈琲をすすり、こう切り出した。
「僕はね、あなたと違って飲食に造詣が深かったりするわけでもないんですよ。ただこの鎌倉という街にはあなたよりほんの少しだけ詳しいと思うのです…住人としてね」
アクセントの度に彼の口からは霧状の唾がとんだ。そしてきっとその事に気づいている人間は僕くらいのものだった。
小町通り入り口にあるルノワールは、週末とあってか席を選べないほどの盛況だった。外では海からではなく山側から吹き下ろしてくる乾いた冷たい風が若宮大路や裏路地を抜けていたから、人の息で窓ガラスやメガネがくもるこの空間はちょっとしたオアシスのようだった。
「僕は大分前に退職してしまいましたが、長い間最近世間を騒がしている「日揮」で働いていたんですよ…」
彼がそう言うと、僕の視界の至るところで動きがあった。その声は白黒写真の中に一点だけある赤い花みたいに異様な存在感を放っていて、その空間にあったすべての視線がこちらに移動しているのを感じた。僕は老人の顔を見たままだったけれど、彼と背中合わせの後ろの席の人は珈琲片手に振り向いたし、僕の左隣りの婦人はケーキを食べる手をとめた。
皆が老人の次の言葉を待っていた…
…こういう場合、話の本筋に関係なく、周りのオーディエンスが聴きたいだろう…と思われる質問を咄嗟に選んでしまうものですね…
僕は芸能レポーターが大キライだけど、なんとなく彼らのサガというか職業的な性分を理解できた一瞬でもありました。
2013年1月、鎌倉にて…
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