夏の終わり | collageのブログ

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夏の終わりは、いつも決まって寂しくなる。今年は冷夏予報が出ていたから楽しい計画はできるだけ暑いうちに、と前倒しでやってきたつもりだけれど、それでも予想以上に早く秋の気配で、シュンとなってしまう。そういえば昨年のちょうど同じ頃『夏の終わり』という映画を観たことを、ふと思い出した。そして観賞した後、なんだか言いようもなく切なく、割り切れない気持ちがわき起こったことも。ただ私の記憶というのは相当頼りなく、涼しくなりかけていた気候のこと、それからその感情がわき起こったことは覚えていても、どんな結末であったのか、まるで覚えがないのだ。私の記憶力にも問題があるけれど、きっとラストもそれほど衝撃的なものではなかったのだと思う。呆気なく終わったか、「この後の解釈は観客にお任せします」的な感じのいずれかだったのだろう。でもその代わりといってはナンだけど、主人公(満島ひかりさん)の揺れる女心の演技のシーンは鮮明に覚えている。きっと私自身が「女性の気持ち」という点に目を光らせ、そこにフォーカスして観ていたからだと思う。でもその時に感じたのは、「これって男の人の話じゃない?」ということだった。主な登場人物は、主人公と二人の男なので、聞けばすぐにどういう話なのか大体の想像はつくと思うけど、私が驚いたのは、一人の女を巡って男が戦う、という構図ではなく(私は最初、こういう話だと思っていた)一人の女が、もう均等に等しいほどの熱量で、二人の男性をそれぞれ同時に愛する、ということに対してだった。男性一人と、それをめぐる女性が二人、三人(いやもっと?)という話は、もう飽きるほどよく聞く話で今更驚くほどでもないけれど、その逆のパターンがあるなんて!もちろん、男性だから女性だから、というのはないし、そういう女性が現実にいることもわかっている。でも、実際に私のまわりの女性と私自身について考えたとき、どうしてもそれは考えにくくて、身に引き寄せて感情移入することができなかった。私は女という性を生きているから、男の人のことはある意味向こう岸の存在で、どんなに想像力を使ってみたところで、決してそのメンタリティに辿り着くことはできない。でもこれが自分と同じ女という性を持つ種類ならば、少なくとも男性よりは共有できる範囲が多いはずだ。それでも、どうしても自分を同じ女として投影できなかった。「私はそんなに器用な女じゃない」。それがきっと全ての答え。器用ではない、の反対で一途を主張するつもりはないけれど、そもそも同時に二人の人を同じ分量で愛することなど、到底不可能ではないだろうか。たとえば愛が満タンで、自分には100%の愛情があるとすれば、その半分ずつ、50%ずつの分量で愛するのならまだわかる。でもそんなに器用に半分にできるはずもないし、そもそもそれは愛じゃなくて趣味の領域だと思う。もしそうではなく、100%のありったけの愛を、二人それぞれに捧げるということであれば、身が持たないのではないか。200%の愛を持っているのならば話は別だけど。私は男の人がよく妻と不倫相手それぞれに向けるいい顔は、やっぱり100%の愛のなかで、器用に使い分けていると思う。そうでないと、リアリティがない。だって男の人には仕事というれっきとした情熱の矛先があるし、その点は女の人よりも恋愛以外に、秘めたる熱さを残しておかなければでしょう?でも、もしあの映画のなかの世界が本当にあるのだとすれば、やはりそれは”女の業”というものなのかも知れない。誰かを愛さずにはいられない。そのためには全てを投げ打ってでも体当たりで、ぶつかる。守るものなんて、失うものなんて何もない。そういう後先考えない本能のままのストレートさと、愛の分量そのものが、女性の場合は男性よりも比較にならないほど大きいのかも知れないと思った。そしてもう一つ。家庭の事情と外の恋愛事情、両方抱えている男性はよく口ではうまいこと言う人も多いみたいだけれど、都合の良いセリフはほとんどアテにならないのではないか?と冷静に思った。それは上の理屈によるものと、やっぱりどこか、自分の心を守るために残りの何%か保険をかけていると思うから。女の人みたいに大胆に突っ走ることを期待しても、やっぱりなかなか難しいのだと思う。それは性の違いというのもあるし、大人のならぬ、男の事情というのがあるのだということがなんとなくわかる。やっぱりいつの時代も大胆不敵なのは女性のほう。もし本気の本気で射止めたい人が結婚していたとしたら・・・、男の人の甘い言葉をあてにして待つよりも、仕掛けたほうがいいのかも知れない。実際のところは経験がないからよくわからないけれど、理屈の上ではそういうところにおさまるのだと思う。