近代の博物学者たちがパンダの存在に最初に気づいたのは1869年だそうです。
1930年代半ば 大ぜいの人びとが シカゴのブルックフィールド動物園に『中国からあいきょうのある新しいクマ』が到着するという新聞記事を胸をときめかせて読んだそうです。
驚いたのは アメリカ人の一般の30代女性が大陸の奥地に入って行ってパンダのような希少な動物を個人的に捕まえて合法的に海外に持ち出したことです。
検疫所では子犬のように扱われたそうです。
今のわたしたちは 森や山にはいったら
【とっていいのは写真だけ 持ち帰っていいのは思い出だけ 】
と教わって育ちましたから やっぱり時代が違うんだな~💦っておもいますね。ね

でも今のほうが昔より動物園にふつうに パンダがいます。
たぶん 動物園にパンダがいるようになるためには最初は野生から捕獲する必要がありました。 それは 意見がわかれる繊細なところですが かわいいパンダも野生には1500 くらいしかいなくて 存続が ピンチです。ボクは動物園や飼育センターの役割に感謝します。
動物園のパンダも幸せそうですし。

昔 スーリンというパンダがいたそうです。
ほんの一年半・・
ちいさな命が 流れ星のようにきらめきました 。。

1936年に スーリンを中国の四川省の竹林の中からアメリカに向かう長い旅にたたせたのは 22歳の中国青年ガイドでした。
そのガイドは 無傷の生きているパンダに触れた近代史上最初の人として知られています。
以下に 雑誌の二つの記事や他の資料で読んだ アメリカに連れて来られた最初の生きたパンダをつかまえたこのガイドが自分で語った話をまとめてみました。
やってることはまだ 保護目的っていう感じには見えないし 記述は1930年代 のことなので今の感覚からすると びっくりしますけど...

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① ルース・ハークネス夫人はニューヨークのファッション・デザイナーで 夫は有名な動物収集家でした。夫は 自分こそ中国から西欧世界に生きたジャイアント・パンダを最初に連れ帰る者になるのだ と確信していましたが 逆に中国で病気にかかり亡くなってしまいました。
② 未亡人となったルース・ハークネスは 夫が手掛けたことをやり遂げるため つまり生きたパンダを西欧世界に連れて行くために中国にやってきました。
③ルースは 目的を 米国の領事館に話し ガイドが紹介されました。 ガイドは1936年9月初旬に彼女と会いその月の26日に出発しました。
④ 彼らはまず揚子江をのぼり始めました。最初に乗り込んだ2000 t から3000 t の川船から150 t の平底舟まで 幾度も船を乗り換え 最後には いかだ まで使いました。
1600 km ほど内陸に入った所では 川岸の苦力に舟を引いてもらうこともありました。
⑤ この川旅の中で最も壮観だったのは 揚子江名物の峡谷を抜けるときだったそうです。両岸に 300 m を超す絶壁がそそり立ってたという。
⑥ 重慶で揚子江と別れ 自動車で成都まで行きます。そこから次の中継点まではルースを除いて全員が徒歩で行くことになります。 このへんからヒマラヤへむけて地形の標高があがっていきます。 ガイドは歩こうとするルースを説き伏せて 苦力の担ぐファーガーと呼ばれる西洋かごに乗せました。その中継点は最後の前哨地です。そこからは道がけわしくなります。かごを担いでくれる人夫もこれより先には行きません。全員が歩いて進みます。
。。。彼らは山賊におびえました。荷物を運んでいたクーリーやポーターは,アヘンを手に入れるのに足る給料がもらえると姿を消してしまいました。道がなくなると むちのように体にあたる樹木の枝と戦いました。雨が降ると 砂塵はぬかるみと化しました。彼らは四川省の壮大なシャクナゲの森の中をくぐり抜けて進みました。高度が上がるにつれて,気温は下がっていきました。北に向かって二日歩いて最後の食糧の補給地に着きました。ここから西に向かい パンダの生息地に入ります。
⑦ そこをでて二日目に ある寒村に着きました。ここに来るには人の踏み固めた非常に険しい小道を通るしかありません。しかし 山の懐に抱かれたこれらの小さな村に 一つの中学校と幾つかの小学校があったのには驚いたそうです。村人がいうには パンダが時々教室の中に入って来ることもあるのだそうです。(今してるのは1930年代の話です)
⑧ 彼らは古い城に捕獲本部を置きました。そこからさらに一日西へ入った所にベースキャンプを設け パンダを捕まえるためのわなを幾つか仕掛けました。ガイドはルースをベースキャンプに残し 山を登ってさらに奥に入り 自分がキャンプ 2 と呼ぶ所まで行って さらに幾つかのわなを仕掛けました。
ルースとガイドはそれぞれのキャンプからお互いに使い走りをやりとりして連絡を取りました。
⑨ ところがルースはもっと刺激が欲しく 奥のキャンプに来たがりました。奥のキャンプはルースにとって余り居心地の良い場所ではありませんでしたが 彼女は来るといって譲りませんでした。そこで ガイドはルースを連れに行きました。
⑩ 道は非常に険しく ルースは猟師たちに付いて行くことができなかったため 猟師たちはどんどん先に進んで行きました。ガイドはルースの背中を押して 彼女が登るのを助けました。
⑪ ガイドは猟師たちには パンダを決して撃たないようにという命令を与えておきました。一番大事なのは生きたパンダを捕らえることです。
ところが前を行く82歳の老ハンターはパンダを見ると興奮し 発砲しました。そして逃げるパンダの跡を追って行きました。パンダは命は無事だったらしいけど 切ない展開になります。
⑫ 森の中の比較的 木がまばらな所に出たとき ガイドは小犬の鳴き声のようなくんくん言う声を聞きました。鳴き声をたどって行くと うろのある大きな木がありました。そのうろの中の竹の葉を敷いた寝床の上には あかちゃんパンダがいました。 母親は赤ん坊を残して行ったのです。
⑬ 「わざわざ中国にまでやって来たあなたの お目当てのものです」。
ガイドのことばに 息を切らしてやって来たルース・ハークネスは ガイドの( 握りこぶし二つほどの大きさのピンク色の ) まるいもの を半包みに頂いた手のひらでできた杯の意味が つかめない様子でしたが やっと ためらいながら 信じられない感じで 尋ねました。
「パンダの赤ちゃんなの?」 
彼女は息をのみました。パンダの子供をガイドから受け取ると 抱きよせて Oh, Baby, Baby と優しくささやきかけました。
⑭ しかしガイドには 彼女の優しさも 話しかけるしぐさも むなしく思えました。
「 これが何になります? どうせ死ぬのです。何の役にも立ちません。さあ 行きましょう 」 と強い語調で言いました。
ガイドはまだ 逃げた 母パンダを見付けたいと思っていました。
( このひとたちにひきさかれてしまった親子・・シートン動物記みたいでせつなすぎる・・)
彼の 自分の手のひらで もがいているこの小さな生き物が 世界じゅうの人びとの感情を魅了しきってしまうとは考えてもいませんでした。
⑮ ルースの方はパンダの子供にすっかり魅せられてしまい 「 いいのよ そのことは忘れて キャンプへ戻りましょう 」 と言うと 小道を下り始めました。ガイドはシャツの内側に小さなパンダを入れて 後に付いて行くほかありませんでした。
⑯ ベースキャンプに戻ると ルースは自分の荷物をひっくり返し やがて哺乳びんを取り出しました。ガイドはあぜんとしてしまいました。ルースがそんなものを持って来ていることなど少しも知りませんでした。ルースは ガイドが上海でだれかに 体重が135㌔もあるジャイアント・パンダを中国の奥地から運び出す際の問題について話しているのを聞いて パンダの子供の世話をする用意をしてきたのです。
ルースはミルクを調合してびんに入れ ニップルを取り付け それをパンダの子の口に入れてミルクを飲ませました。パンダはそれをむさぼるように飲みました。
ルースはパンダの子を抱き ミルクを飲む様子を見守っていました。
⑰ 彼女はこのパンダにスーリン 「幸運で優雅」という名をつけました。
その後 ルース・ハークネスとスーリンは米国に向けて旅立ちました。1936年12月に米国に着きました。

fotoスーリン
fotoルース



⑱ こんなにちいさいかったけど スーリンは西欧世界に初めて連れて来られた生きたジャイアント・パンダでした。行く先々で大騒ぎになり多くのマスコミにとありげられ アートの題材にも際立った仕方で用いられました。
⑲ スーリンがルースのもとにいたのは数か月で シカゴのブルックフィールド動物園に寄贈されました。しかし 悲しいことに 1歳半で死んでしまいました。
幾らか悲しそうに見えますが シカゴのフィールド博物館に行けば はく製にされたスーリンの姿を今でも見ることができるのだそうです。

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ピンク色で目も見えない状態でママとひき離され一年半で。。。着地点のみえない 切ない物語でした。。
でもスーリンの存在は きっと 欧米の世界に人々に パンダに対する関心を喚起するきっかけになり 人類がパンダを保護したいという気持ちを高めることになったと想います。
スーリンに関するいろいろな雑誌の記事や資料を読んでこんなふうに 学べました。

● パンダのように 肉食動物のような歯や体を持っている動物でも草食で生きてゆくことができる。肉よりも竹のほうがはるかに硬い。歯の設計は 肉食か草食かには限定されず どんな硬さのものを主食にするかということに関係があるようです。
● 健全な感覚として 人は どんな奥地の動物とでも なんらかのかたちでかかわっていたい 保護や世話をしなければならない という自然な願いや責任感を抱くよう造られている。
貪欲な人間のせいでいろいろな野生動物が滅亡していますが 野生動物は存続のために善良な人間の保護と管理を必要としているように思います。
以前に 中国のパンダ生息地で竹が開花して一斉に枯れたときに保護の手を差し伸べてその地域のパンダ絶滅を阻止したのも人間でした。聖書の最初の章からも 弱肉強食の展開する荒野や原野のような 手つかずの自然 が 本来の地球 なのではなく 善良な人類が動物をいたわって保護する状態 が本来の地球の姿であるとみてとれます。動物を狩猟することは もっとずっと後に 考え出されましたが 動物を保護し世話することは人類史の最初から取り決められていました。ペットを飼っている人から保護区の管理をしている人にいたるまで 動物に愛と関心を払ったり世話をしている方たちにも感謝したいとおもいます。

P.S
最初のパンダの時 30代半ばだったル‐スは 繁殖をめざして もういちど山奥に分け入り 今度は18kgのパンダを捕獲し 連れてきました。繁殖は実現しませんでしたが 当初に夫婦の抱いた夢を実現した後 40代半ばで波乱に満ちた生涯を終えました。
この経験を話した当時22歳のガイドも 幼いころから 歴史的偉業を成し遂げたい! みたいな 目標があって アクセク生活していたそうです。実際に 雇ってくれたアメリカ人の夫婦の目標を手伝うかたちで 西欧世界で人々が初めて目にした生きたパンダを見いだすことでささやかに達成感を味わいました。
しかし そのずっと後 台湾に來られ イギリスから來ていた夫婦が無償で手伝ってくれて夫婦でいっしょに聖書を学び 歴史的偉業よりも遥かに価値があると感じる希望や仕事を見出し 晩年は満足と平安のうちに日々を送ったそうです❄