レモン哀歌 | 金曜夜はコレッテ・ポエ

金曜夜はコレッテ・ポエ

これって詩的・・・と感じた言葉たちについて、書いていきます☆ミ

     ―高村光太郎『智恵子抄』



そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう






10月5日は、

ビートルズのレコードデビューの日であることは、

前回も書いた通りです。


実はこの日は、

詩人の高村光太郎の妻である智恵子さんの、命日でもあります。


『智恵子抄』

国語の教科書でも取り上げられているので、

知っている方も多いのではないでしょうか。


光太郎が智恵子さんと結婚する以前(1911年・明治44年)から

智恵子さんの死後(1941年・昭和16年)までに書いた、

詩29篇、短歌6首、散文3篇が収められた詩集です。

戦後もさまざまな出版社から同名の詩集が出ていて、

それらには初版の刊行後に書かれた作品も載せられています。


40年近くの歳月をかけて、

たった一人の女性のことが歌われて、

それがただ一冊の詩集に結実しているのって、

本当に類いまれなことだと思います。


そのいとしい人が息を引き取る一瞬をとらえたのが、

上に挙げた詩、『レモン哀歌』です。





『智恵子抄』は

私にとっても、かけがえのない詩集の一つです。

十代の頃に出会って、ボロボロになるまで読んで、

福島にある智恵子さんの生家にも行ったことがあります。


じゃあ、手放しで褒めたたえられる詩集か、と聞かれたら、

かすかな引っかかりを感じるのが、不思議なところですが。


なんでだろう・・・


光太郎があまりにも、

智恵子さんを美化しているような気がするんですよね。


それに『智恵子抄』って、

光太郎から見た智恵子は、とうとうと語られていても、

智恵子さんから見た光太郎って、全くの沈黙状態だから、

半欠けの月を見るような思いなんです。


でももし仮に、

月の影の部分に、光を照らすことができたとしたら、

どれほど輝く満月になるんだろう・・・


「私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであつた。」


と、光太郎も詩集で書いている通り、

智恵子さんはどんなに美化しても美化しきれないくらい、

天性の美しさを持った女性だったのではないかと、想像しています。


光太郎は、

智恵子さんのその魂に触れて、

自分自身どころか、世界まで生まれ変わったような目覚ましさに、

打たれたのではないかと。


『人類の泉』

『僕等』

といった詩を読んでいると、

その衝撃度が、はじけ飛ぶ光のように伝わってくるようです。





その智恵子さんが、

異常なまでの精神の清らかさを飛びこえて、

精神に異状をきたしたことも、詩集には切々と書かれています。


東京での生活苦、そして、福島の実家の破産。

智恵子さんは統合失調症を患い、服毒自殺を図ります。

かろうじて一命は取りとめたものの、

病で崩れていくのを留めることはできませんでした。


智恵子さんは、

品川のゼームス坂病院に入院し、

そこで数多くの切抜絵を生み残していきます。

そのすべては智恵子さんにとって、

「詩であり、抒情であり、機知であり、生活記録であり、此世への愛の表明」であったと、

光太郎は語っています。


そして、1938年(昭和13年)10月5日の夜に、死去。


その間際の、最後のきらめきが、

『レモン哀歌』には描かれています。


レモンって、

記憶に訴えかける果物だと思うんですね。


レモンって聞いただけで、口の中にぱっと、

あの酸っぱい感覚が、よみがえってくるような。


そのトパアズの香気を立てて、

智恵子さんの意識も、よみがえったのかもしれませんね。


レモンは朽ちていくものだけど、

トパアズは永遠に輝きます。


死にゆくもの、

その果てにある、死なないもの。



・・・・毎年、この季節になると、

そんなことに思いをはせています。


月が冴えて、金木犀が香る夜は、特に。