2月13日(金)気温14° 晴れ
今日は義母の命日です。
1997年(平成9)2月13日他界しました。
1905年(明治38)9月15日生まれ。
享年93才、満91才の生涯でした。
ブログを書き始めた頃、ファミリーヒストリーと題して義母の生涯を書いております。
そのブログをご覧になった方はご存知でしょうが、義母は本当に波瀾万丈の人生でした。
義母の生涯はさておき、私の人生に多大な影響を与えた人でもあります。
私は義母と25年同居しました。
29才で結婚した私でしたが、家事などしたことはなく、何も知らない、できない嫁でした。
片や義母は家事完璧な人でした。
家事のイロハから教えてもらいました。
私が嫁いだ頃は舅は亡くなり、息子(私の夫)と2人暮らし。
義母にとって、長い不運な人生で、やっと穏やかな時でした。
思い出すと、決して優しい人ではなく、厳しいというか、きつい性格でした。
能天気で、働きもせずに、のうのうと生活する嫁は、自分の苦労の人生と比べると、言うに言われぬ嫉妬の存在だったと思います。最初の頃の判じかねる底意地の悪さやきつい言葉を浴びせられた時、一瞬グサっときても、私は息を吸い3秒間感情を停止していました。すると怒りなど消えてしまうんです。むしろ許す心に変わっていました。70もなって、そんな歪んだ気持ちを持つ義母を哀れに思いました。
"これも許せ!これも許せ!"と自分に言い聞かせていました。すると私の心は軽くなるのです。
表立って喧嘩とか口論はしたことなかったです。世代の違いも育ちの違いもあるわけで、もとより結婚する時、姑と同居はわかっていたことですし、私は覚悟して結婚したのですから。
今思うと、私は何事にも覚悟は大事だと思います。添い遂げる覚悟。子供が産まれたら、自立した社会人として送り出す覚悟。
そのようなものを、その時代、時代において私は堅持してきたつもりです。
息子夫婦と同居した時も、私の支えで息子達の生活が運がよくなるために尽力してみよう、そんな覚悟をしました。
なぜこのようなことを言うかと言いますと、義母と一度だけ対決したことがありました。それは喧嘩ではない、人としての生き方に関わる事でした。
それは、私が最初の子供を実家で出産したことでした。出産前1ヶ月半から実家に戻り、出産後2ヶ月まで実家に居たことが義母には腹立たしく、許せない行為に思えたのでしょう。
私が最初の子供娘を連れて八幡に戻った時、ご苦労様でしたと言った義母の目は私を睨みつけていました。
そして翌日から赤ちゃんを見に訪問する人達に"うちの嫁は、私宅のような家に来る嫁ではなく、もっといいところにいく人なんよ。すんでのところで孫はあちらに取られるとこだった"と私に聞こえよがしに言うのです。それを聞いてから、お乳は出なくなってしまうし、私は悲しくて毎日泣いていました。毎日泣き顔している私を見て「パー子さん、貴女は何が悲しくて泣いているんですか?」と言う義母に返す言葉がないで「実家の母が、父は病気だし、姉は夫婦仲が悪いし、弟は結婚したばかりだから、父が亡くなったら、私はどこに行けばいいのかしらと嘆くものですから」と私は言いました。すると義母は「そんなになったら貴女がお母さんを引き取ってあげなさい」と言いました。
この時、義母の気持ちが裏腹だったことに私は気がつきませんでした。
「ありがとうございます。◯夫さんも、そう言ってくれました」と私は言いました。
このことが1年後に私と義母のバトルになるなんて考えもしなかった私です。
翌年、私は年子で息子を出産。
義母は上の子の子守、家事は全てしてくれ、私に何一つさせないで産後2ヶ月経った日に、「パー子さん話があります。貴女も産後2ヶ月経ったので、身体も元に戻ったことですから、私はこの家を出ます」
と言い出しました。「どうしてですか?私が至らないことがあれば直します。そんなこと言わないでください」と私は言いました。
すると義母は「貴女、一年前に、貴女のお母さんのことで泣いていましたね。
◯夫が引き取ってもいいと言いましたね。
だったら、お母さんを引き取りなさい。
私が、貴女のお母さんの犠牲になってあげましょう」と言うではありませんか!
私はあの時、貴女のせいで泣いていましたなんて言えずに母のことにして言い訳していたのが、この義母の気持ちを歪めてしまったのでした。
「私の母には2人の男の子がいます。母は私がおいでと言っても娘の嫁入り先に厄介になるようなことはしないと思います。私が至らないことは改めますので、一緒に暮らしてください」と畳みに額をつけて頼みました。義母こそ、いく先のない人だとわかっていたからです。
義母「そんなに言うなら、居るわね。でもね、実家のことを世間話みたいに言うのは慎みなさいね。よーく覚えておきなさいよ」
その時から私の中に新たな覚悟ができました。
それからは義母は孫の世話に明け暮れ、私は義母を常に持ち上げ、仲良く暮らして、義母は今が一番幸せと言いました。
あれから父が亡くなり、1人暮らしを7年していた母が姉に引き取られたと姉から電話があった時、そのことを義母に話しました。あれ以来私は母のことを義母には話さないでおりました。母に電話する時は義母がいない時かけていました。
義母「あら。お母さん、うちに来られたらいいのに。ババ2人で仲良く暮らしますから」と言いました。
その時、私の心の糸がプツンと切れました。
「お義母さん、あなた、どの口で言ってます?9年前、自分の身内のことを世間話で言うな、よく覚えておきなさいと言われましたね。あの時、私は覚悟しました。母がたとえ、野垂れ死にしても母のことは話すまいと覚悟してきました。今は優しい気持ちで言ってくださっているのはわかります。だけど私は母を引き取ったりしません!」と言いました。
その翌朝。義母は憔悴した顔で「私は夕べ一睡もできませんでした。貴女にひどいことを言ったのですね。それを貴女は9年も耐えて、微塵も実家の話はしませんでしたね。謝ります。許してください」と義母は泣きながら私に手をついて謝りました。
「お母さん、もういいんです。私は恨みもなにもしてませんから、水に流しましょう」と言いました。
そして義母は私を誰よりも信頼して、私に看取られて、苦しむことなく大往生しました。
義母と出会ったことは私を鍛え、自立心を育て、芯を持つことを学ばせてくれました。
義母が死去後、近所の義母の友達ばあちゃん達が「お宅のばあちゃんは貴女の悪口をただの一度も言いなさらんかったよ」と言いました。
そして義姉も「お母さんはね、パー子さんの悪口は一度も言わなかったよ」と言ってました。
義母は愚痴も叱言も言わない人でした。
「家族の悪口言うのは、天に向かって唾吐いているようなものよ」と常々言ってました。本当に芯の強い人でした。
義母との同居経験があったからこそ、現在の息子夫婦との同居生活を決意できたと思っています。
今は感謝しかありません🥲
写真は義母70才の時。敬老会に参列するのに、私がプレゼントとした着物と帯を着ています。
仏壇を開けると、しーちゃんが覗きます。しーちゃんが中に入らないように見張っています![]()
今日もしーちゃんは私の横で昼寝😴

