2月3日(火)気温9° 晴れ 節分
今日は夫の命日です。
2015年(平成27年)2月3日 夫は永遠の旅立ちをしました。
1940年4月生まれですので、満74才でした。
あれから11年の歳月が経ちました。
今日は、あの日のことを思い出しています。
平成26年7月、私と夫は小倉に住む息子夫婦と同居を始めました。
引越しが終わって翌月、夫は身体の異変を感じ病院に行きました。診断結果は肺癌、余命3ヵ月。即入院。闘病の甲斐なく他界しました。
肺癌と判明してから5ヵ月後でした。
その間に入院、退院、通院を繰り返しました。
1月30日、意識混濁状態になりましたので、近親者に会わせてくださいと病院から言われました。すぐに義姉に連絡。娘にも連絡。義姉は1月31日の午前中に来院。娘は夕方到着。その夜は私と娘で病室に泊まり込み、翌日の2月1日には一旦娘は帰らせて、その夜は息子夫婦が病室に泊まり込み、私は自宅へ。2月2日の朝から病院に行き、そのまま泊まりました。
夫は意識混濁状態。
夜、夫の足を摩りながら、夫の好きな唱歌や童謡を歌い続けました。
そして夫の耳元で「あなたとの人生は楽しかったよ。面白かったよ。ありがとうね。よく頑張ったね。もう頑張らなくていいよ」と言ったら、夫の目尻から涙がすーっと流れました。その瞬間、夫の血圧が急降下。医師と看護師がバタバタと入ってきました。"息子さんに連絡してください"と言われ、注射をされました。
息子にメールしましたが反応なし。多分寝たばかりだろうと思った私は、夫は助からないのはわかっていました。息子夫婦をせめて2時間は寝せなくてはと思い、電話はしませんでした。
私の思惑通り、メールに気がついて息子夫婦が病室に飛び込んで「お父さん!」と叫んだ瞬間、夫の血圧計は一本線になりました。2月3日午前3時でした。
すぐに葬儀社に電話して、遺体を自宅に運んでもらいました。
葬儀の打ち合わせは9時からすることにして、私と息子夫婦は朝まで寝ました。
葬儀社との打ち合わせをして、翌日の葬儀の段取りをしました。
訃報は私と息子、嫁の3人で手分けして連絡。夫が肺癌と余命宣告された時、夫は覚悟していたのでしょう、自分の葬儀の要望を私に話し、会場のレイアウトまで言ってましたので、私は絵コンテに書いていましたので、夫の要望の通りにプロジュースしました。会場に展示する物(ハーモニカ、感銘を受けた本、自費出版した本、主宰していた同人誌や自分の小説が載った本)を旧居にMちゃんと取りに行った時、それらは種別に紐で括って書斎の本棚に置いてありました。それを見た時、私はこの人は死を覚悟していたのだな、と思いました。
衣服、帽子、靴、鞄なども処分していました。遺品整理を私はしなくて済みました。
通夜
亡くなった日は節分でした。
通夜は自宅(小倉のマンション)で親族だけでしました。
義姉家族5人、娘家族4人、私と息子夫婦の12名。我が家は無宗教ですので、菩提寺はありません。夫はオレが死んでも坊主は呼ぶなよ!と常々言ってました。
親族だけですので、息子や娘は懐かしいもので従姉妹達とワイワイと賑やかな通夜でした。
その夜、娘家族を泊まらせるのに、部屋がありません。
リビングに布団を敷き詰め、雑魚寝させました。
孫1が8才、孫2は3才でしたが、2人は枕投げを始めました。キャーキャーと賑やかなこと。私達大人は、それを見て、大笑い。賑やかな通夜でした。
翌日4日、葬儀は「お別れ会」として、宗教色なしで、夫の要望通り、私のプロジュースした葬儀は参列された人々に感動してもらえた葬儀になりました。
プロの葬儀社の人が感動したと言われました。
寡黙で、正義感が強くて、意思の強い人でした。
自分に厳しく、家族にも厳しかったので、煙たい存在でした。
死ぬまで信念を曲げず、孤高に生きた人でした。
常に働く人の立場で、権力と闘い続けた人生でした。
外でのことを話さない人でしたので、交友関係もよく知らなかったですが、お別れ会に参列した下さった方が150人。
初めて夫の人望、人徳、偉大さを知りました。
退職して15年、役職もなく、生涯平社員でした。
今日は夫の命日に、あの日のことを思い出しています。
夫50才の時の写真です。
遺影もこれを指定していました。
どこまでも自主性を重んじる人でした。
夫からの指針
夫は常々、私に言っていたことがあります。
①物事の真実を見なさい。
②今、何が一番大切か、何を最優先すべきか常に考えなさい。
③見栄や虚栄心は捨てなさい。
この3つは私の現在の指針になっています。
