
本能寺の変に続いて書こうとした
岐阜城の話です

随分日にちが経ってしまいましたが

岐阜城主には
いかに悲劇に見舞われた城主が多かったか
検証してみたいと思います
正式には信長の時代から
岐阜城の名になったのですが
稲葉山城時代の斎藤家三代から

亡くなられた方です
( )内は享年ですが諸説ありです
斎藤道三 (63)
いわずとしれた道三さん
斎藤義龍
(35)

1554年〜1561年
父道三を討ち取った5年後に病死
斎藤龍興 (26)
1561年〜1567年
城を追われ朝倉義景を頼り越前へ
刀根坂の戦いで戦死
織田信長 (49)
いわずとしれた信長さん
織田信忠
(26)

1576年〜1582年
信長の長男
信長から幼名を奇妙丸と名付けられる←
本能寺の変の際に二条御所にて自害
織田信孝 (26)
1582年〜1583年
母の身分が低かったので
年下の信雄が次男となり三男となる
秀吉、信雄に対抗して
柴田勝家側につき
結果追われて知多の野間大坊で自害
池田元助
(26)

1583年〜1584年
池田恒興の長男
恒興と共に小牧長久手の戦いで戦死
池田輝政 (50)
1585年〜1590年
池田恒興の次男
この方は姫路城を立派に作り替えた後病死
長生きとは言えないけど
比較的安泰な人生でした
豊臣秀勝
(24)

1591年〜1592年
お江さんの最初の夫で豊臣秀次の弟
文禄の役の最中に病死
織田秀信 (26)
1593年〜1600年
信忠の長男、信長の孫
関ヶ原の戦いの際
岐阜城を攻められ自害しようとしたが
降伏し城を明け渡し
先日書いた御手洗池の伝説も
また岐阜市内の崇福寺に残る血天井も
この時のものです
今でも見ると難攻不落な城に見えますが
攻撃側に
かつて岐阜城主だった池田輝政がいては
内部事情知られていてダメですね
その後高野山を追われた後自害?
途中家臣が
城を占拠していた時期もありますが
(竹中半兵衛とか)
それは抜いてあります
池田輝政さん以外は
間際に
悲運に見舞われていますね
それにしても
享年が26才の人が多い












いつ頃までかちょっと不明ですが
(数十年前?)
金華山北側長良川から見ると
崖が信長の顔に見え
信長の無念の顔と
話題になっていたようです(談 亡父)
今は崖の形が変わり
見えないようです
ネットに写真残ってないか見たけど
探しきれなかった












じゃがいもを半分だけ収穫しました

土の中が濡れていて
土がついているので
少し干してあります
おまけのまりさん
雷が鳴り出して
サークル内に自主避難のまりさん
避難場所はそこで良かったかな
うちのあたりは
今日は激しい
雷雨
がやってきました


水まきしなくても
良かったのだけはいいけど

まだ
大気の状態が不安定で
豪雨の起きやすい日が続きますが
災害が起こる前の
早めの避難を心がけたいですね