ここに蒲生郷舎という武将の
陣地があったようです
蒲生というと
前回のブログの杭瀬川の戦いで
島左近と共に東軍へ奇襲した
蒲生備中がいます
「関ヶ原の戦い 布陣図」で
画像検索すると
いくつもの布陣図が出てきますが
石田三成の陣そばに島左近がいて
その横に蒲生の名があります
蒲生備中、蒲生郷舎、蒲生頼郷、蒲生真令
この名のどれかが出てきます
この蒲生さんは
これだけの別名を持っていたのかしらー
あの時代ならありうるわねー
と思っていたら
よくよく調べたら
蒲生備中と頼郷と真令は同一人物
のようですが
実は蒲生という名の武将が
二人いたんですね![]()
でも
何故かどの布陣図にも
蒲生備中と蒲生郷舎が
二人一緒には描かれずに
どちらか片方しか出てきません
二人とも
有名な蒲生氏郷の元家臣で
蒲生の姓と郷を与えられたようです
関ヶ原の戦い当時
蒲生郷舎は三成の家臣となっており
蒲生備中は杭瀬川の戦いの際と同じく
恐らく島左近と共に戦っていただろうから
二人とも笹尾山あたりに
布陣していたんだろうとは思われますが
実際は
どちらかが参戦していなかったとか?
備中さんの方は関ヶ原の戦いで戦死したので
確実だろうし
郷舎さんも三成の家臣なら
当然参戦しているだろうし
でももしかして
郷舎さんは三成の家臣から
この時すでに抜けていて
完全に備中さんと
間違われていただけだったとか??
私の持っている本にも
関ヶ原の戦いの布陣図が
いくつかか出ていますが
同じ本の中の記載で
備中さん一回
郷舎さん三回描かれてます![]()
備中さんが戦死したので
戦いの途中で大将が
郷舎さんに変わったなんてありえる?
なんだかよくわかりません![]()
郷舎さんは関ヶ原の後は
藤堂高虎に仕えたりしています
備中さんのお手柄の
織田長益(有楽)に斬りかかり
負傷させたお話は
郷舎さんのお話として
長く間違われていたみたいですね
同姓なのでまぎらわしい![]()
というお話でした![]()
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おまけの
まりさん
いつも昼間はサークル外にいるのに
このベッドが寝心地いいのか
最近よく
サークル内のこちらでお昼寝しています




