ファイナンシャルプランナー兼コインランドリー経営のサノです。

10年国債がかなり低くなっています。

今日もマイナスです。

これからいつまで続くのかわかりませんが、金利が上昇することはしばらくは無さそうです。

保険の予定利率も、4月で変更になるところが多いですが、現状維持は難しいかもしれません。

さらに下がることが予想されます。

学資保険等加入を検討している方は、3月中に契約した方が良いと思われます。

さて、男女の産み分けは成功率70%とも言われていますが、医学的根拠がまだ立証されていないということで、100パーセント産み分けができることは今現在考えられません。

これは生命の不思議、ともいうべきことで、仏法の明鏡に照らしてみるしかありません。

十二因縁を紹介します。

十二因縁とは、生命が因果をともなって三世を流転していく実相を説き明かしたものです。

その十二とは、

①  無明  (むみょう)

② 行       (ぎょう)

↓           中有 (ちゅうう)

③ 織       (しき)

④ 名色    (みょうしき)

⑤ 六入    (ろくにゅう)

⑥ 触        (そく)

⑦ 受         (じゅ)

⑧ 愛        (あい)

⑨ 取        (しゅ)

⑩ 有        (う)

↓            中有 (ちゅうう)

⑪ 生        (しょう)

⑫ 老死     (ろうし)

です。

それぞれを簡単に説明します。

まず ①と②は過去世の因を二つに要約したものであり、①の無明とは、過去世における煩悩。

②の行とは、過去世に造った業です。

次に③④⑤⑥⑦とは、現世に受けた五つの果で、③の織とは、過去世の業力により、母の胎内に宿った心法。

④の名色とは、身心が胎内で、発育し始めるが、未だ眼、耳、鼻、舌の四根が具わらない状態。

⑤の六入とは、胎内にあって、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が具足した状態。

⑥の触とは、母体から生まれ出てさまざまなな物に触れるが、未だ苦とか楽とかの分別ができない状態。

⑦の受とは、次第に身心が発達し、好きなこと嫌いなことの分別はつくが、未だ愛欲は起こさない幼児期。

⑧の愛とは、物事や異性に愛欲を感ずる思春期の状態。

⑨の取とは、成人して盛んに物事を貪る状態。

⑩の有とは来世の果を決するもろもろの業を造ること。

⑪と⑫は来世の二果で、⑪の生とは、現世の因
(愛、取、有)により、未来世の生を受け、母の胎内に入ることをいう。

⑫の老死とは、来世に老い、そして死することをいう。

このように十二因縁は、三世にわたる生命の連続を、因果のうえから説き明かしたものであり、過去の因と、現在の果、また現在の因と未来の果と、二重の因果が説かれていることから、「三世両重の因果」といわれる。

生命の三世にわたる連続の中で最も難解なのは、死後の生命が再び生まれ出るということでしょうか。

このことを十二因縁の上から見れば、「②行」から「③織」、また「⑩有」から「⑪生」に至る過程です。

これについて説明すれば、死んでから再び来世の生を受けるまでの中間の生命を「中有」という。

中有の生命は、姿、形なく、肉眼で見ることはできない。

いわゆる無相の状態です。

生命が中有にある期間については、あるいは7日、乃至49日、あるいはさらに長期と、長短不変であるが、

「極悪、極善には中有なし、極善の人は直ちに成仏す、極悪の者は直ちに悪趣に堕つ」(日蓮大聖人 十王讃歎抄)とあるように、死後直ちに成仏する極善の人と、直ちに地獄に生ずる極悪の者の中有は限りなく短く、無いに等しい。

ゆえに中有は極善、極悪を除いた一般について論じられるところです。

日蓮大聖人の十王讃歎抄にこうあります。

「人、一期(いちご)の命盡(つ)きて死門(しもん)に趣かんとする時、断末魔の苦とて、八万四千の塵労門(じんろうもん)より色々の病起って競い責むる事、百千の鉾(ほこ)・剣を以って其の身を切り割くが如し。之に依って眼(まなこ)闇(くら)く成って見たき者をも見得ず、舌の根すくんで云いたき事をも云い得ざるなり。(中略)魂の去る時は目に黒闇(こくあん)を見て、高き処より底へ落ち入るが如くして終る。さて死してゆく時、唯独り渺々(びょうびょう)たる広き野原に迷う、此を、中有の旅と名(なづ)くるなり。されば路にゆかんとすれども求むべき資糧(かて)もなく、(中略)又闇き事闇夜(やみよ)の星の如し」

余談ですが、人は死んだら二時間ばかり、命が体を離れず、体内に残るそうです。

言葉も話すことができない、見ることもできない、体を動かすこともできない。

感覚だけはものすごく敏感になる。布が顔に落ちてくるだけで、岩石が落ちてきたように感じるようです。

耳は、敏感になります。よく聞こえるようです。

このことから枕経と言って、二時間は耳元でお経を唱える、ということをやるそうです。

さて、このような中有にある無相の生命が、生前の業力によって、生まれるべき父母を定めて胎内に宿るそうです。

この母胎に入った極微の生命を「織」という。

すなわち織とは、父母の精血(せいけつ)・赤白(しゃくびゃく)の二渧(にたい)「受精卵」に宿った心法であり、「織神」ともいわれる。

「我等其の根本を尋ね究むれば、父母の精血・赤白二渧和合して一身と為る」(始聞仏乗義)

「魚鳥を根丸して赤白二渧とせり、其の中に織神をやどす」(佐渡御書)と。

また天親菩薩の倶舎論には、「中有が業力により一定の生処に趣かんと決まった時には、いかなる力もこれを転ずることができないこと、中有の行動は金剛を以ても遮ることができないこと、そして母胎に入って生を結するに至ること」等がくわしく説かれている。

こうして見ると、親と子の生命は本来別々のものであることがよーくわかります。

親が子を作るのでもなければ、子は親の延長でもない。

それぞれ独自の生命が、宿習によって親子の縁を持つにすぎない。

「父母となり、其の子となるも、必ず宿習なり」
(寂日房御書)

別の生命ではあるけど、強い縁がある、ということです。

邪見の親を持つのも、あるいは我が子に苦しめられるのも、お互いに親となり、子となる宿習によるんです。

では遺伝というのはどうでしょう。

親の形質は遺伝子によって親から子、子から孫へと引き継がれる。この限りにおいては子は親の延長のごとくに見えるが、仏法はさらに深く親子の関係を見つめる。

すなわち遺伝子により子が親の形質を受け継ぐことは事実であるが、そのような遺伝子を持つ親のところに生ずるということ自体が、過去世の業力による宿習です。

あくまでも親子の生命は別々であって、親は縁にすぎない。

ゆえに同じ親から生まれた兄弟でも、性格・果報はそれぞれ異なる。縁は同一でも、過去世からのそれぞれの生命が異なるからにほかならない。

これらを考えると、自分の子が男なのか女なのかは宿習ということで、選ぶことは不可能のように思えます。

ただ、男の子が欲しい、とか女の子が欲しい、とか強く願うことで、自分のところに望みの性別の子供がきてくれるのかもしれませんね!

ここで、日蓮大聖人等の文証を出しましたが、これは僕が個人的に日蓮大聖人を尊敬しているからです。

幼少のころから日蓮大聖人の話は聞いていたので。中には反日蓮大聖人の方もいるでしょう。

ただ、僕は無宗教であり、法論等は控えていただきたいと思います。

理由は法論する資格が僕に無いからです。

そもそも法論とは、その宗派の代表同士が、公の場でやるものなんですよ。

ネットで法論して、仮に結果が出たとしても、なにも意味をなさないんです。

桓武天皇の前で伝教大師が十宗・八宗と法論して、桓武天皇の前で伝教大師はその義の誤りを明らかにしたそうです。

それから伝教大師の法華経が広く用いられたという話を聞いています。

法論とは、そのようにしなければ意味がありません。不毛な争いが生まれるだけです。

そして、現在は宗教が乱立しています。成仏が叶わないのに力があるように見せるものは詐欺だと思います。
釈迦仏の時代にも、仏意に私見を加えて新しい宗派を作るなど、多かったと思いますが、

道理、文証、現証、そして五綱判を用いれば、どの宗教が正法なのかがはっきりしてきます。

正法とは、あらゆるまがいものに邪魔されて消えてなくなるようなものではありません。

仏滅後、正法一千年においては、前の五百年に迦葉・阿難等が小乗経を弘め、後の五百年には竜樹・天親等が権大乗経を弘め、次いで像法一千年
には、天台・伝教等が法華経の迹門を弘通しています。

正法においては仏力、法力により、その時代に適した、また聞く者の機根に適した教法を正師と言われる菩薩が現れて、弘めるわけです。

現在は末法。釈迦仏は闘諍堅固・白法隠没の時と定めています。

仏法を論じても、国家権力による迫害がなくなった現在、日本の全宗教による、公場対決が、仮に行われたら、正法がはっきりしてくるかもしれません。

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