この世に生まれて最初の記憶ってやつにどのくらい信憑性があるのか。
映画「忍びの国」の特典映像を観ていたら、キャンペーンで北海道に訪れていた大野さんが、スタッフからなにか思い出はないかと訊かれて、三歳のときに札幌に来たことが最初の記憶だと答えていた。
その話しぶりからすると、本当に初めての記憶らしい。でもたぶん、その思い出は自分自身が三歳のとき札幌に来ていたものだということは、後から家族から聞いて知ったのだろう。物心がついたときに、生まれて最初の記憶を思い出そうとして、「ああ、あれは自分が三歳で、札幌にいたときだ」とはさすがに理解できていないはずだ。それともそういう人も稀にいるものなんだろうか。どこかで聞いた話では、自分自身が母親の腹のなかにいることも覚えているという珍しい人もいるという。どこまで真実がわからないけども。
私が物心ついて、生まれて最初の記憶を思い出そうとしてみたとき、なんとなくよみがえってきたのは、かなりぼんやりとした雰囲気だった。その後、親から自分の幼少期の出来事などを聞かされたりするたびに、それを親目線(引きの画)で想像した。幼稚園などの写真を見て、ぼんやりと幼いときのことを思い出したりもした。
もう三十歳を過ぎたからだろうか、どれが誰の記憶で、どこからが想像なのかがわからなくなってきた。
幼稚園だか保育園だかもよく覚えていないけど、そこでやった(正確にはやらされていた)スイカ割で、目隠しで何も見えなくて当然スイカも割れなくて、目隠しを取ったあとに視界が明るくなったときの眩しさというのが、最初の記憶だと思っていた時期もあった。同じ園のなかで、机に座ってひらがなの練習をしていて先生に怒られている光景というのも、ぼんやり覚えている。どうしても園に行きたくなくて、でも親に無理やり連れていかれて、先生の目の前で大泣きしている自分を、まわりにいた友達が笑って見ているいるという光景も覚えている。実家の庭で遊んでいたり、近所の友達と遊んでいたり、なぜかお隣の庭にひとりぼっちで土いじりをしている記憶もある。もう、どこが最初でどこがその後のことなのか。まったくはっきりしない。
大野さんみたいに、地元とは違う場所にいたならば、家族に聞くなどすればそれが何年の出来事なのかもはっきりするだろう。
記憶という点では、もう、二十代の出来事でさえもうよく覚えていない。
小説家になりたいと、夢をもって、実際に行動に移し、新人賞に応募というのを何度かやってみた。結果は伴わなくとも、書きたいと思うことがあるのはきっと幸せなことだと思う。今年も正月の時期には、なにか目標をたてようと手帳をただ見つめてみたりしたが、一向に正月にたてた目標とやらが百点満点に実行できた年などなく。いろんなことを言い訳に、執筆に時間をかけることも少なくなってきていた。どうしたもんかと、スマホでSNSをあさってみたり無駄な時間を過ごしたり。
そんななかで、「年の始まりに、自分が余命一年だと仮定して目標をたてるとうまくいく」といった体験談を見かけて、素直にその考えに乗っかってみた。
そうすると、自分の人生の汚点、若気の至りという思い出したくもない数年間のことを書かねばならないという衝動にかられた。
経験をもとに、フィクションも絡めて面白いものを作ろうと思い立ち、古い日記を漁ったりしてみた。そう毎日毎日日記を書いていたわけではなかったので、面白そうなエピソードを思い出しても細かい出来事までは書いていないことが多々あった。どうせフィクションにするのだからそこはもう、自分の面白いと思う描き方をすればいいと思ったが、どうにも気になってしまう。
当時は、もう、まわりに迷惑をかけ自己中心的な恥ずかしい行いをしていた(さすがに警察のお世話になるようなことはなかったが)と自覚した途端に、後悔の連続。なかったことにしたくても今更出来るわけもなく苦しんでいたというのに、どうしたことか。忘れたくても忘れられなかったのに、今はもう、別の人間の過去みたいに思えてくる。
別の人間と自信を持って言えるほど、過去と比べて優れた人間になれたわけではないけれど。