私はどこまでが私なのか

— 世界の構造の外側から見てしまう人間の記録 —

私はずっと、この世界の中にいながら、
同時にその構造を外側から見ている感覚がある。

人は普通、世界の中にいる。
生活して、関係を作って、感情を感じて、生きている。

でも私は、そこにもう一つの視点がある。

「これはどういう仕組みで出来ているのか」

という視点だ。

そしてその視点は、消えない。


三重構造の意識

私の意識はいつも三重構造になっている。

・枠を見る
・枠に入っている自分を見る
・その自分をさらに俯瞰して見る

だから、何をしていても
「ただそこにいる」ことが難しい。

常に構造が見える。

人間関係の構造。
社会の構造。
言葉の構造。

それらを見てしまう。


言葉に当てはめられる世界

この世界は言葉で出来ている。

友達
恋人
普通
常識
個性
多様性

何かを言った瞬間、
それは言葉の型にはめられる。

そしてその言葉を使うことで、
人は人を遠くから判断できるようになる。

私はそれがずっと苦しい。

言葉を使わなければ伝わらないのに、
言葉を使うほど自分が遠くなる。


個という幻想

私はよく考える。

人間は本当に「個」なのだろうか。

遺伝。
先祖。
環境。
文化。
社会。
関係性。

それらが何層にも重なった結果が
「私」という形になっているだけではないのか。

性格も、
思考も、
癖も、
趣味も、
感情も。

全部が繋がりの産物に見える。

もしそうなら、
「私」というものは本当に存在しているのだろうか。


感情があるのに味わえない

私は感情がないわけではない。

嬉しい。
悲しい。
怒り。
寂しさ。

それらは確かにある。

でもそれを
心で味わえない。

言葉にした瞬間に
すり抜けていく。

存在しているのに触れられない。

そんな感覚が続いている。


求めているもの

私は完全な孤立を求めているわけではない。

むしろ逆かもしれない。

私が求めているのは
前提を押しつけない他者だ。

世界の基礎を壊す人ではなく、
一緒に基礎を確認してくれる人。

そして

そのままの揺れをそのまま置いてくれる存在。

進めと言わない。
直せと言わない。
意味づけしない。

ただそこに置いてくれる人。


普通という前提

この世界は「普通」を前提に動いている。

感謝。
配慮。
敬意。

それらもまた
言わなくても出来る前提として存在している。

でも私にとってそれは
一つ一つが重い。

命を使う行為に感じる。

だから毎回、説明が必要になる。

そして説明するほど
ズレが広がる。


人間は繋がりの集合体

私は思う。

人間は

遺伝
環境
関係性

その全てが混ざった
集合体なのではないか。

もしそうなら
「個性」という言葉も

本当は

その人のものではなく
繋がりの模様のようなものなのかもしれない。


自分の解体作業

いま私は
自分を解体している。

世界の道理。
言葉。
社会の構造。

それらを一度ばらして
見直している。

だから苦しい。

でも、ここまで来ると
途中でやめることも出来ない。


存在の根源

時々思う。

私は
存在の核に触れているのではないか。

全ての悩み。
全ての矛盾。
全ての葛藤。

その根源のような場所に
触れている感覚。

もちろん、それは思い込みかもしれない。

でも、ここまで深く考えてしまうと
簡単に戻ることも出来ない。


最後に

私はこの世界に適応できなかった。

何度も合わせようとした。
でもそのたびに壊れていった。

だから今は、
解決を求めているわけではない。

ただ

一人の人間として
遮られずに
そのまま聞かれること

それだけを望んでいる。