解説 1/2 | 萬屋

萬屋

最近久しぶりにタロット熱がわいてきたのでそれに関する記録がてら

【解説】アレハンドロ·ホドロフスキー、タロットの旅


滝本誠 TAKIMOTO Makoto


アレハンドロ·ホドロフスキーの精神世界行脚は、文学、演劇、映画、漫画原作者、精神療法師の活動として、彼の人生を覆いつくし、眩暈がするほ

どの錯綜体である。その錯綜を解きほぐし、タロットに内容を絞り込み、さらに、「夢想とまやかしの3世紀」と断じる、タロット解釈史の錯綜もこれまたみごとに簡略化して述べたのが、本書全体の序である。加えて、タロット·リーディング各章のあたまにも短文を付して、自らの体験に即しての熱い想いを語っていく。


最後に置かれた〈タロット的思考〉での存在の爆発的歓喜の流出 

この最後の流出は、まさに、ホドロフスキーという存在自体が放つ光というしかない。

ともあれ、自身が本書において記述した内容のエッセンスは、さまざまなタロットと、どこでどう出会ったか、そのようなタロットのなかから、どのタロットを究極の選択としたか、あるいはせざるをえなかったか、そして、それにどう向き合うか、また、向き合ったか、の真剣勝負だ。


アンドレ·ブルトン、そしてタロットとの邂逅

ホドロフスキーにとっての最初の重要なカード、〈マルセイユ·タロット〉の選択はどのようになされたか? ここに、シュルレアリスムの厳格な教皇

アンドレ·ブルトンが登場してくる。このブルトンという名前がもたらす馥郁も、〈ホドロフスキー酩酊〉の遠い余韻のひとつである。

パリのカフェで、若きホドロフスキーは、

メキシコ在住の女性シュルレアリスト、レオノーラ·キャリントンから贈られたカードを、恭順の意を示すべく、ブルトンに見せたらしい。どんなねぎらいのお言葉が? しかし、ブルトンは、そのカードを、明快で底が見えすぎるーーということは、シュルレアリスム的驚異がそのカードに潜んでいないということだろうかーーほとんど言下に否定してみせた。このときの顚末は序に書かれている。カードなら〈マルセイユ·タロット〉だよ、キミ。教皇の命には従うしかない

  タロット選択に関して、師ともいえたブルトンに、ホドロフスキーは、とんでもない恥辱を与えることになる。最初の出会いからほぼ10年後に、訪れたブルトン家で起こした〈トイレ事件〉である。尿意をこらえきれなくなったホドロフスキーがトイレに直行。急いでドアを開けーーむろん、もうほとんどパンツを下ろした状態でとびこんだのであろう。......そこに腰を下ろして使用中だった老ブルトンの大絶~叫!

詳細は、ホドロフスキー自伝『リアリティのダンス』(青木健史訳、文遊社、2012)をお読みいただきたいが、確かに、教皇にとって、それまで考えたこともないかたちでの恥辱であったろう。ホドロフスキーは直後、フランスを後にし、メキシコへ去る。

メキシコで、周辺の不興をものともせず、映画製作を開始することになるが、そうした現在へとつながる運命の分岐が、〈トイレ事件〉といってもいいのではあるまいか。『ホーリー·マウンテン』(1973)における糞便の黄金への変容に、ブルトンに対してのシュルレアリスム的謝罪を読むのは間違ってはいまい。話の尾ひれは長いほうがいい。


タロットの愛撫

〈マルセイユ·タロット〉をホドロフスキーに薦めるときに、自分がインスパイアされたとして、ブルトンが挙げたのが、[ARCANE17] (1945)だっ

た。この書は、ナチスからのパリ解放の歓喜のなかで、ブルトンが〈マルセイユ·タロット〉の「星」にインスパイアされ、亡命先で書き上げた作品だ。

ホドロフスキーの〈マルセイユ·タロット〉への疑念なき信頼は、この書におけるブルトンの詩的パワーがもたらしたものだ。「書籍の購入は、知的資料を手にするといったようなことではない。それは接吻であり、抱擁であり、愛撫だ。」このように、ホドロフスキーは『エル· トポ』公開時に、あるインタビューで語ったことがある。『ARCANE17』とホドロフスキーの関係は、まさにこのようなものであった。さらに言えば、彼のタロットとの関係はこれはもう、愛撫をはるかに超えての肉体行為へと突き進んでいる。カード

ちなみに筆者は、田舎の高校を出て上京した1967年に、『ARCANE17』の邦訳『秘法17番』(宮川淳訳、晶文社、1967)を購入していて、よく分か

らないながらもひたすら魅了され、常に持ち歩いていたので、愛撫という肌触りがわからないでもない。『詩·空間·イマージュ』(宮川淳著、美術出版社、1967)の文体に憧れていた美術評論家、宮川淳の翻訳というのが、当時の購入の決め手であった。この場合、まず訳文に愛撫されたのである。

「……ひときわ輝くひとつの星が最初の七つの星たちの中央に鎮座する、その星の分岐は赤と黄の火でできている、それは狼星ないしシリウスだ、それは光をかかげるルシファーだ、そして、他のすべての星に優るその光栄において、それは暁の明星だ。ただこの星があらわれる瞬間においてのみ、風景は輝き、生はふたたび明るくなり、最初の星たちをたったいま屈服させたばかりのこの光の中心のちょうど真下に、池のほとりにひざまずいたひとりの若い女がその裸身においてあらわれる……」

若い女がその裸身においてあらわれる、こういった言い回しにたまらないものがある。


ブルトンの解釈は、いうまでもなく、〈シュルレアリスムのすべてを照らし出す,という、彼自身のエゴを強烈に投影したものだ。自画像として選

ばれ、読解されたタロットの「星」ということである。とはいえ、ブルトンのタロット·リーディングの輝く肯定性は、ホドロフスキーの内部に同様の意識を覚醒させた、とみてまちがいない。絶対の肯定性としてのタロットの宇宙! ブルトン絡みでは、彼の『魔術的芸術」儼谷國士ほか訳、河出書房新社、1997)に、〈マルセイユ·タロット〉が8枚、それにいわゆるシャルル6世のタロット》 と呼ばれる15世紀のもっとも古い手描き彩色の美しいタロット「吊られた男」などが掲載されている。残念ながら後者のうち遺されているのは数枚で完全版ではないことが実に惜しい。


ウェイト版、その他のタロット

ところで、ブルトンが否定的な態度をとったカードが、A-E-ウェイト版だが、昔も今も人気は高い。1988年創立の償金の夜明け(ゴールデン·

ドーン))結社は、強烈な人材の集合体であるので(なにしろ魔術師)、当然のように内紛がお家芸となった。ウェイトはサークルの中核というより、周辺人物のようだが、ともあれ彼は、女性画家、パメラ·コールマン·スミスと組んで新作のオリジナル·タロットを発表する。当時の流行であったア

ル·ヌーヴォーを反映した優美な絵柄である。ウェイトは業界的には、あまり評判がよくないようで、1970年代のオカルト ·ブームを牽引した一冊、コリン·ウィルソンの『オカルト』(中村保男訳、新潮社、1973)では、ウェイト本人も彼のタロット解釈も、単に受け売りとしてあまり評価されていない。本人にカリスマ性がないためか? カードのあまりの人気故か? との世界も嫉妬からは逃れられない。

A-E-ウェイト版の22枚の大アルカナ図版を、章のタイトルとして使った異色小説に、ウィリアム· リンゼイ·グレシャムの『Nightmare Alley」

(1946)がある。サーカスのサイドショーで働く一人の男が、そこで学んだ透視能力のからくりを駆使してのしあがり、社交界デビューに至るが、からくりがバレて一挙に零落するストーリーが、「愚者」に始まり「吊られた男」で終わるタロットの流れとなっている。美男スター、タイロン·パワー主演の映画化作品は、フィルム·ノワールの古典として評価が定着しているが、「吊られた男」を未来予知の象徴として使った程度で、原作のようにタロットがヴィジュアルとして全面展開するわけではない。

A-E-ウェイト版の他にも、償金の夜明け 周辺からは、かなり時を経てだが、タロットが何種類も登場してきた。同じサークルとはいえ、監修者と絵師によって、同じカードでも印象はずいぶんと異なるものである。なかでも、悪名高きアレイスター·クロウリーがフリーダ·ハリスに描かせたト

ト ·タロットは、1960年代のウィーン幻想派の先駆のような、線のうねり、色彩の夢見、エキセントリックな構図がさすがのクロウリー·デレクション