街を自転車で走っている中高年をみかけると、
まだ思い出してしまう火野正平さん。
俳優なので、自身の見せ方はお手のものだっただろう。
いつも恋人がいて、いるだけならまだしも同時に何人もいたりして、
それでも逃げも隠れもしないでひょうひょうとしていて、
A子も好きB子も好きみんな好き、などと言うから
恋人たちには、逃げるどころかまるで彼を『共有』しているような
不思議な結束力すらも感じたものだった。
わたしはまだ少女だったけれど、ドラマや映画の中の火野正平さんの
三枚目で主役ではない役どころも、おとなの女の人たちが
うっかり気を許してしまう要素であることを理解していた気がする。
先日。
火野正平さんが亡くなったことももちろんだが
70を越えていたことにびっくりした、ということを
火野さんと同世代のひとにお話ししたとき、
70ってそんな老人ですか?
なってみると、わたしはまだ70代だが、という気持ちになるものです。
でもなる前は、年寄りっておもってましたけれどね(笑)
というようなことを、おっしゃった。
冬日の淡い光が注ぐ駅までの歩道を歩いていたときだった。
横顔が光に温められてすごくやさしい表情で言うので
ああこんなふうに人は、いろいろなことをおだやかにわかってゆくのかなと
おもったりした。
取材を受けたり自転車に乗っていた火野正平さんが、
ほんとうの彼だと信じ込まされていたような気がしている。
わたしたちが見ていたのは『火野正平』という役名で、
だれ(家族でさえも)もいなくなった場所にひとりいるとき、
実は思い悩み神経質で気難しく、傷ついたり傷をつけたり
それでいて器用であったというような側(がわ)があったのではということだ。
かなしいけれど、こういうことは
いなくなってからわかることが多い。
なってみないとわからないこともふくめて、
まだまだ知ってゆくことがある。
旅といえば大袈裟だけれど。
押している指紋の先に火のやうな乱れのやうな煎餅のくず
漕戸もり
読んでくださるひとがいてはじめて短歌や俳句になる。
読んでもらえない歌や句は使い捨ての孤独でしかない。
たくさんのひとに読んでいただくために、
もっとうまくなりたい。
