偶然だれもいない瞬間が撮れた。
清々しい。
人々をおもてなしするのが生業である此処にすら、だれもいないことを清いと感じてしまうのだから、本来人というのはもうすこし遠慮して生きていくべきなのだろう。
硝子戸の中。
このあと、いつものように人びとが陽炎のように行き交うのをみていた。
というか、行き交ううちのひとりがわたしだった。
こうして一日の物語りははじまる。
kanのこと叱らないでね漱石忌 漕戸 もり
KANさんは漱石を模して撮った写真を遺影にしたそう。
こめかみに手をやるあの有名な夏目漱石の写真。
こめかみに手をやるKANさんの遺影を見るたび漱石を思い出す。
今日は漱石忌。
改めてKANさんは、真のエンターテナーだとおもう。
さて、忘れてはいません。
第六十七集 中部日本歌集を読みましょう。
朝七時の透析センター次々とバンが止まって蟬声著し
吉田淳美 第六十七集 中部日本歌集より
透析。
当事者もご家族も大変な通院だ。
朝七時。次々と止まるバン。
多くは語らなくても、これだけでもう胸がつまる。
たとえば透析をされるご本人。そのご家族、或いはご家族のような存在。
そこに朝七時ということは、一体何時に起きて身支度をしているのだろう。
夏の早朝の、ほんとうなら澄んだように感じられる空気は、病を負うものにとって羽織るものが必要な冷気なのかもしれない。
それでも到着する頃には(まだ早朝だというのに)、蟬声がタールのようになって空気を熱へ塗りかえているのだ。
作者が風景を語りすぎることなく、感情を入れることなく淡々と詠むことで、結果的に読み手の自由度を増すことになった。
透き通るわたしをいつか見失ふあなたの胸に硝子の地図を
漕戸 もり
