そう遠くない店舗とはいえ日用品の買い物は重労働だ。
わざわざ車で行く距離でもなし、かといって自転車は日焼け対策だけで汗だくになるし、自転車籠に入る分量の買い物ができたためしがない。毎日行けるわけではないからついつい買いすぎてしまうというのもあるけれど,まず自転車籠に塩梅よく入るようエコバッグに商品を詰めこむことができない。豆乳や調味料などの重いものを底に入れ、つぎに根菜や果実。そして最後にパンや納豆などの軽いもの。おっと、肉や魚を買った日はまたひと苦労。液漏れしないようビニール袋に入れ、なにがなんでも傾けてはいけないのを忘れていた。さらにパック入り玉子にいたっては、とにかくご無事でさえいてくれればいいともう神頼みである。
想像するだけで憂鬱になる。
そもそも買い物が嫌いである。
生きているあいだに、こんなにネットショッピングが当たり前になるなんて想像もしなかった。
買い物嫌いにとってそれはそれは幸運なことだった。
けれど、日用品の細々とした買い物となるとこれまた微妙で、配送料を払う対価にパンと豆乳と納豆とほうれん草(イメージ)がどうも自分の中で見合わない。
デビ夫人(イメージ)でもあるまいし、そこは庶民の小心がわたしを許さないのである。
 
そこで遂にショッピングカートなるものを購入した。
ショッピングカートデビューしたのだ。
これでらくらく歩いて買い物へ行くことができる。
今日のタイトルはなんだかせなけいこ先生の童話にありそうだけど、ずばりミッフィちゃんのショッピングカート。
おいおい、ミッフィちゃんかよとお嘆きのあなた。わたしはあなた以上に嘆いている。
ある日ショッピングカート売り場に出掛けると、おばあちゃん(おじいちゃんでも可)が買い物の途中で座ることもできるカートや、おばあちゃんでも楽に引ける軽量カートや、おばあちゃんでも簡単に折りたためるカートや、年金暮らしのおばあちゃんでもお手軽に買えるお値打ちなカートや、地主のおばあちゃんにも納得してもらえる絢爛豪華なカートや、そして、ミッフィちゃんのカートが並んでいた。
つまりショッピングカートとはおばあちゃん(またはおじいちゃん)のためのものだったのだ。
仕方がないので売り場にあるカートを物色していると、なかなかに機能的な優れもので充実しているのがわかってきた。
なんといってもいちばん心惹かれたのは、買い物の途中で蓋の上に座ることができる軽量カート。傍らで噴き出すのを堪えながら「買ってあげるからそれにしたら」と家人に言われ危うく決めそうになった。
でもどうだろう。
勢いよく、売り場の鏡に映るさつまいも色の椅子型カートに座るわたしは、みずぼらしく情けないおばあちゃんだった。
 
怖っ。
 
だめだめだめだめ、絶対だめ!
 
一刻も早く売り場から逃走するため、たいして見もしないで買ったミッフィちゃんのショッピングカートの顛末がこれだ。

後でカート売り場のお兄さんから「案外ミッフィちゃんのカートはご高齢の方に人気があるんですよ」と聞く。

ご高齢の方かぁ。実に遥々としたことばだとおもう。

 

よく見るとミッフィちゃんは物哀しい目をしている。
口が✖️になっているからなんだと今ごろになって気づく。
ミッフィちゃん、一緒にしあわせになろうじゃないの。
まだまだ座り込むわけにはいかないのだよ。
 

 
別名うさこちゃんともいう。

 
生きている限りは老婆秋ふかし  清水径子
 
この俳句、読み込めば読み込むほど逃げ場がない。
老婆とまでいかないまでも少年には戻れない今をおもう。
あ。
言いそびれていたのですが少年だったんです,わたし。
 
 
 
言ひ損ねていたけどわたしは短日で遡るほど濁流になる
               漕戸 もり