玉さんのお酒の飲みかたを観るたびに、わたしの知人の誰かに似ているなぁ。誰だ?、と親しいひとから仕事でお会いした一期一会のかたまで、ひととおり振り返ってみるのが習慣になっていた。
お酒の注文の仕方から肴の選びかた、飲みはじめてからいつごろ上着を脱ぐとか、なんならお店に入るときの目つきや仕草まで、すべてわかりみが深く、いくつかの動画を見るうちに次の場面が予想できるようになってしまった。
特にこの、献杯と言いながら、西村賢太さんとの思い出を語る「信濃路」の回の玉さんは、酔いが少しずつ回ってきてぐだぐだ話しだす感じといい、しみじみしている感じといい、そして終わりのほうでほろりとする感じといい、これはわたしのとても慣れている(いつもの感じ)なのだった。
似ているのはすごくちかいひとに違いない。
でも誰も彼も今ひとつ決め手に欠ける。
誰かわからない。けれど、よくよく知っている飲みかたなのだ。
今日寝る前、久しぶりに西村賢太さんのエッセイを引っ張り出してきた。
西村さんは小説も逸品だけど、エッセイがいい。
喧嘩をしたり怒ったり機嫌がよかったり具合が悪くなったりするけれど、一貫して大酒を飲み、心臓に油がこってりとへばりつくような食生活は変わらない。
酒とウスターソースで炒めたウインナーが西村さんの作品の血肉だとわかると、なんとなく彼の小説の深層に触れた気持ちになる。実際にどうかはさておいて。
このエッセイの中にも西村さんと玉さんとのやりとりが記されているので、久しぶりに玉ちゃんねるの信濃路の回を観た。
ああ、これは。
玉さんの飲みかたは、わたしの飲みかたにそっくりだった。
というかわたしだった。
それで違和感なく観ていられるのか、道理で。
そうやって観ていると、なんだか困った。
どう困ったのかと聞かれても答えようがないのだが、なんだか困っている。
まあでも、自分の飲みかたに似ているひとを眺めるのは、親しみがあり甘い気持ちになるものだ。
ちょっと困ってはいるけれど。
