秋晴れの陽が沈むころの風には、不意にひとを感傷的にさせる手ざわりがある。

肌に直接というのではなく、一枚羽織った化繊のカーディガンがオブラートの役目をして、これまでの人生になにひとつ完成されたものなどなかったような、それを霞と呼ぶかは別として、心許ない気もちになるものだ。

子どものころ。

両親とも仕事をしていたので~そのうえ父は呉服の仕事で女優やタレントさんの接待のため年に半分は不在だった~夜は外食や出前を取ることも多かったのだけど、そのころ贔屓にしていて今も営業しているお店は一軒もない。

とんかつ屋さん、ラーメン屋さん、ステーキハウス。今おもえば仰天するけど、母に連れていかれたスナックで酔っ払いのお客に舐めるようにみられ、ぺたぺたと太腿に触れられながら、ママさんの作るイタリアンスパゲッティを店の片隅で啜っていた記憶がある。

あのとき母は一体どうしていたのだろう。それなりに美しい母だったのだが、ちやほやされても乱れるひとではなかったし、カラオケも積極的に歌うほうではなかったから、幼い子どもたちの傍らでビールとナッツをつまみながら仕事の疲れを癒していたのかもしれない。

いずれにしてもそのときの母の記憶は欠片もない。

 

いちばん通っていたのは<びやだるおじさん>というステーキハウス。

※表記は英語だったのか漢字だったのかもわからない。びや、か、びあ、かすら今や不明

 

ステーキハウスと言っても、緑多い住宅地にひっそりとあってご近所さんが通ってくるような、ご夫婦(ご兄妹だったかもしれない)で営んでいる和やかな店だった。

わたしが注文するのは決まってハンバーグステーキかポークステーキのどちらかで、どちらもそれこそ頬を落とすほどおいしかった。これもそういう<記憶>だったということでしかないのだけど。

ポークステーキはぶ厚く、今でこそオーブンで中まで火を通すことも知っているけれど、当時は子どもながらに、どうしてこんな大きな豚のかたまりをこんがりとみずみずしく焼くことができるのだろう、と感心したものだ。

ハンバーグステーキに至っては、見事にまんまるで、未だにわたしがハンバーグを捏ねるときのお手本になっている。

 

もうどこにもないあの店もこの店も、夕刻の風に洗われて心のうちにひっそりと灯を翳す。

スナックの酔っ払いの客のねっとりとした視線も、ステーキ店でハンバーグを焼く音を聴いているワクワクした気持ちも、すべてひっくるめて灯は仄暗く照らす。

どこにもないのではなく、炙りだされてふわっと甦るくらいには〈在り〉つづけるらしい。

その距離感を承知しているような秋の風に吹かれている。

 

写真は、訳あって最近いただいた今は無きご近所にあったお店のシール。

珈琲豆の挽売り専門店など、名古屋市内に数えるくらいしかなかった時代のことだ。

子どものわたしには敷居が高く、おしゃれでモダンな店構えは子ども心に成熟な大人のムードをかんじさせてくれていた。

一枚ください、とお願いしたら元オーナーさんが数枚綴りのシールをくださった。

思いあぐねて貼りつけたのが笑い飯さんのシールの上。

ちぐはぐのようで、最初からそうなるとわかっていたようななかなかに絶妙なバランスだとおもう。

 

 

 蜂蜜を加へて混ぜる秋湿り   漕戸 もり

 

 

 

コーヒーにはちみつを落とすわたしはすこし威張っている。

へへん。