作品をつくるひとたちに朗読のテクニックを指導するなんて、なんとおこがましいのだろう。
本職で数多くの朗読教室を担当してきたけど、今回は毛色が違う。
なにしろ文筆家というものは、間違いなく朗読がしたくてうずうずしているようなところがある。
朗読を通して、ビジネスマンが仕事に生かそうと発声や説得力を学んだり、ちいさな子どもを持つおかあさんが子が飽きないよう絵本を読み聞かせるヒントを得るのとは趣が違う。
読むのが自作であればなおさら、作家がそう読むならそれこそがオリジナルで、ほかのだれかが手を入れる箇所などどこにもない。
いや万が一、そこをもうすこしこんな感じで朗読すると、読者もしくは聴衆に伝わりやすくなりますよとアドバイスしたところで、伝わりやすくなったことが作品の仇になることだってあるのだ。
 
たとえば。
作家の高橋源一郎さんは朗読を心から楽しんでいるひとりだとおもうのだけど、いわゆる朗読の指導にありがちな、聞きやすさや話しやすさやイントネーションや間合いや息の継ぎ方等を考えたとき、決してお手本になるような朗読ではない。それでも、高橋さんの朗読は、噛もうが読み間違えようが早口であろうが、ただしく、心地よく、説得する力が備わっている。わたしじゃなくても、あの加賀美幸子さんですら、彼に指導することなどできないのだ。
創造主を矯正することは、その意味での正しさにおいて不正解であるし、作品そのものを変えてしまう罪に手を貸すことになるからだ。
 
このおこがましさを、あらかじめ引き受けておくような今回の企画。
歌人であれば、わたしの歌歴など序章のような大先輩もいらっしゃるかもしれない。
また、万葉集はもちろん塚本邦夫や岡井隆などもふくめ、短歌の大家と言われる歌人たちの遺した歌でさえ暗唱できるものはなにひとつないというたよりなさである。
短歌は文章ではない。世界だ。
この世界を理解できない歌もあるだろう。
<そのうえ、通常の朗読教室のようにテキストをこちらが用意するのではなく、参加者様が自作やお気に入りの他作品をお持ちになるのだ!>
これはおもしろいことになった。
作家たちを前に、どんな化学反応が生まれるか。
教えていただきながら教えていただきながら(ここリピート)、いっしょに高められるような勉強会になるはず。
なぜなら、わたしも作家のはしくれだから。
今は立案者である歌人の吉田さんの構想を待ちながら、元が取れるようにだけはしたいとおもっているところである。
 
 

震はせる喉のひとつを持ち寄つてひとりひとりが秋へ繋がる

                 漕戸 もり

 

 
歌人俳人以外のかたも是非どうぞ。