日本の夏は、反省と後悔と主張の連続だ。
それらから逃れるようにいくら海外へ行こうと宇宙へ行こうと、生きている限り息を吸うのとおなじくらい、それらを引き受けないと生きていかれないのだとおもう。
「いや馬鹿な、わたしは面倒なことをかんがえるのは嫌いなんでね。みなさんに委ねますよ」と終戦記念日に北米やタイやインドに出かけても、異国のまっさらな青空に、それはたとえば芥子の実ほどであれ、一点の影が隠している空があることに気づいていないと、わたしたちの夏のレジャーは間抜けに見える。
この間抜けさを引き受けている(と信じたい)ほとんどの日本人は、夏を回想することに慣れ過ぎて、海も山も月も恋もすべてを<おもいで>にしがちだ。
反省と後悔のないまっさらな夏を経験したことがないから、もしかしたら戦後生まれのわたしたちは、夏にはしゃぎすぎているか、反対に沈みすぎてしるのかもしれない。
まっさらな夏。
もしかしてそうだったら、どんなじぶんになっていたのだろう。
「不死身の特攻兵」鴻上尚史著 講談社新書を読む。
よくよく眺めると<不死身>って、なんておどろおどろしい言葉かとおもう。
もうその時点で人間ではない。
あのジェームズ・ボンドですら死んだのだ。
不死身なんかにならなくていい。
ならなくていいし、なるべきではない。
晩夏に顔をあげれば、もうすぐそこに秋が控えている。
それまでに読んでおこうとおもう。
海からの土が運ばれふるさとがはこばれてゆきマンションが建つ
漕戸 もり
SEIYU跡地。
あたらしい土のかわりにふるい土がどこかへ運ばれてゆくのを見ている。
さようなら、ふるさと。
