ここ数年のくだものの高騰ぶりが意外と食費に影響を与えている。
もういいおとななので、肉や魚をたべないとはじまらないということはないが、くだものは毎日ひとくちでいいからいただきたいほうだ。量は一個のりんごを家族でわけあうくらいで十分なのに、残念なことにくだものは、冷凍保存ができないし(ブルーベリー系など冷凍の方が美味しいものもあるが)冬に箱で買うみかん以外は買い置きが難しいので、3日に一度はスーパーで調達をしなければならない。
夏は特に、グレープフルーツやオレンジ、ぶどうや丸ごとではないにしろ西瓜など、水分の多くふくまれる種類を欲することもあって、買い物はちょっとした労働だ。
くだもののお値段が高いのは温暖化や円安の影響があるとおもうのだが、このごろ、旨いとかんじるものに出会うことがすくなくなったのはどういうことなのだろう。
なにも人口で甘くしてほしいというわけではない。むしろ子どものころにたべた、酸味が効いていて歯磨き粉のコマーシャルにつかわれていたほど硬いりんごや、かたちが不揃いでいかにもおばあちゃんの家でたべたいような、なんとも懐かしい土の香りのするような柿を求めている。それなのに、いちごは甘ったるく全体的に大ぶりで可愛いらしさがないし、海外産のグレープフルーツなども、おおきくて重いから期待したのに、皮がやたらと厚いだけで果肉はすくなく大味だったりする。
千疋屋や成城石井のくだものしかいただかないという方は別として、イオンやバローでの日常使いレベルでのはなしだけれど。(Mバリューは論外)
わたしが単純にくだもの選びが下手というのも否めない感はあるが、こう毎日食べ続けていると世界規模で土や水や太陽などの環境や、種や肥料の疲労や、農業を取り巻く社会問題などを疑ってしまいたくもなる。
写真は義母から届いたメロン。
<底が柔らかくなったら食べごろ>という冊子が入っていた。
これがまた難しい。
まずひとつを届いて数日を待ってから冷やしてたべてみるとまだ早い。
底が柔らかいって、どれくらいの状態を指すのだろう。
メロンをいただくたび、<底が柔らかくなったら食べごろ>と書き示している生産者それぞれの主観によって、ずいぶん開きがあるような気がしないでもないのだった。
弟子と呼ばれることのないわたしから生み出すすべてを灯台にする
漕戸 もり
弟子問題。
笑福亭や立川みたいな一門が、名ではわからないものの俳歌壇にも存在する。
笑福亭で学んだけれど明石家で存在するようなわたしだとおもう。
孤高といえばかっこいいけど、さびしい。
