人生で、このカフェの前を何百回通っただろう。

なのに入ったのはこの日がはじめて。

中区栄の繁華街。伏見に行くにも久屋大通に行くにも便利な大津通り沿いにある。

こんなに通っているのに、今までどうして入店しなかったのかといえば、ひとつにはお店が階段を下って地下にあるからだ。

いわゆる半地下というやつ。

看板は地上に出ているのだけど、店内のようすを伺うことができない。

かといって、そのせいで怪しいとかぶったくられるのではないだろうかとか、そういうおもいはまったく浮かばない、旨い珈琲や紅茶を飲ませてくれそうな気配が階下からたちのぼってくるような老舗のカフェである。

それでもやはり、階段を下った先にあるカフェには、ちょっとお茶でも、というとき、ふらっと立ち寄る場所ではないような印象を持つ。

階段を下りる、というひと手間は、既にそこが旨い珈琲を淹れると知っているときや、デートでもなければ、掛けようという気になりにくい。

不思議と、階段を上がった先にあるカフェ(をはじめとする飲食店)は、十分に存在を目視できるせいか、気軽に入れるし、逆にファミレスなどは駐車場スペースの都合もあるだろうけど、階段を駆け上がったところにあるほうが、わくわくするものだ。

じゃあ、初見のお客様はどんなタイミングで階下の店を訪れるのかいうと、一度でも来訪したことがあるひとに連れてきてもらうとか、ほかに行く店がなくて仕方なしにというときなど、<不意に>という場合に限られるのではと勝手に推測している。

<不意に>は<ちょっとお茶でも>と、似ているようでまったく違う。

それくらい、ちょっとお茶でも、というときのさりげなさに籠められたこだわりは、階段を目の前にして案外大魔神のように膨れ上がるものだ。

 

お店に来たことがあるひとに付いて階段を下りてゆくと、路上からは想像もできないような奥行きに、カウンターとテーブル席が左右に連なり、カウンターの背後に珈琲豆やサイフォンや陶器のカップを眺めることができる。

ちいさな入口にこの奥深さは、しみじみ連れてきていただく類いのカフェだった。

ひとりでとか、連れ立ってだとしても全員が初来店だったら、こんなに安心してじっくりと店内を観察することもできなかったし、珈琲を味わうこともできなかっただろう。

※そのうえちゃんと食事もできるのだ

 

それぞれ違うカップに、飲みものは満たされてやってきた。

わたしのカップはウエッジウッドのなぜか冬景色。

それはそれで、会話に花が咲くから悪くない。

階段を下りたとき、飲食店でも書店でも事務所でもなんでもいいのだけど、そこが心地よいとまた来ようとおもうし、居心地が悪いと二度と訪れることはないだろう。

そのくらい、階段を下りるというのはひと手間であるし、もっと言うと半地下というのは永遠に異空間なのである。

 

ゆびに撒くカールコードの足りなさが受話器のこゑによぎつてしまふ

                   漕戸 もり

 

 

 

カールコードにゆびをくぐらせて、いつまでもいつまでも初恋はつづくとおもっていた。