日本語には毛筆が似合う。

筆の起源は中国なので当然といえば当然なのだけど、毛筆で書かれている漢字のみならず、毛筆で書いた平仮名にも惚れ惚れする。

漢文というと漠然としてしまうが、身近なところでいえば般若心経の重厚感は、あの毛筆(風)の書体によるところも多分にあるとおもう。

般若心経が、丸文字とまではいかないとしても、ゴシック体だとか明朝体で綴られていたら、強引に厄介ごとを押しつけられているような気がするのだ。

漢字は見た目だけで、既に面倒くささを伴っているから、なにか付加価値がないとすきになれない。

それをおもえば、毛筆、いや、筆の発明をした中国をないがしろにするわけにはいかない。

並んでいた列に割りこんでくるとか、宿泊先の部屋から備品を持ち帰ってしまうだとか、にせもののミッキーマウスやドラえもんをしれっと自国の人気者にしたりとか、中国を語るときあまりいい印象のない近年ではあるけれど、芸術の歴史的ルーツをたどっていけば中国からはじまっていることが多く、そのたびに悪口は控えようと自制心がはたらくのだった。

 

毛筆のかな文字もいい。

水のようにさらさらと筆で書かれた和歌を目にすると、不勉強ゆえ読めないことを幸いに、たいていの歌は秀歌然としてみえるので、たとえ愚作だとしても自分勝手に感嘆してしまう。

我ながらおめでたいとおもわなくもないけれど、それくらい毛筆の力技は侮れないのだ。

 

先日の歌会でいただいた賞状と盾。

いいか、わかっとるなという脅しといっても過言ではない。

毛筆で称えられると、精進しなければという気もちになる。

ついつい怠けてしまう性質には、これがちょうどいい。

 

 

不撓不屈の精神で短歌道に不惜身命を貫きます。

どすこい。

 
 
  青臭く胃のうへにある本心に玉葱三四ころがつてゐる  漕戸 もり
 
本心はいつもこんな感じ。
夏には玉葱、秋には里芋、冬には白菜、春には大蒜。
ごろりとした存在感が特徴です。