ひさしぶりのスシロー。
あのような事件があったとしても、スタイルが変わっていないのが潔い。
事件以来、他の回転寿司店は軒並み、回転しない、お茶粉やお箸は見えないところ(テーブルのなか等)に常備、注文するとお皿がレーンのうえを瞬間高速で届く、などなど様変わりしたけれど、当のスシローは、湯呑みカップもお茶粉も、お寿司の皿にカバーがないのも、遠くからのどかにお皿が向かってくるのも、以前となんら変わりない。

悪いのはあなたなのだからわたしが変わる必要はない、と整然としている気の強いおネエちゃんみたいである。

文句なしでかっこいい。

要するに、てめえが謝れよ、ということなのでしょう。

お客様が神様の時代はとっくの昔に終わっている。

それをお客は心得ておかないとどういうことになるのか、具体的に知らしめたような騒動だった。

じぶんでじぶんの首を絞めるとよくいうが、想像してみるといかにも苦しいじゃないか。

うぐぐぐぐ。

息ができない、では終わらない。

回転寿司が巷に出現しはじめたころは、わざわざ注文するひとは稀で、流れてくるすし皿を、ありがたく取って喜んでいたものだった。あの牧歌的な平和感を味わえなくしたのは、お客は神だなんて勘違いしたわたしたちのせいだ。

じぶんで絞めた首の痛みはつづく。

自業自得である。

 

体全体が胃袋になれる幸福が、回転寿司にはある。

たらふく食べて、デザートもいただいて、そのあとはすぐに帰らず、しばらくレーンを流れている(今はほとんどのお店で注文皿しか流していませんが)すし皿を眺めるのが、平均的な回転寿司での過ごしかただし、わたしたちが生みだした最高のアトラクションだということを改めて世に問いたい。

マナーは守りましょう。

ね?

さて、まだまだこれからデザートをいただきます。

 

 

     〆鯖へ辿り着くまで競ひあひ     漕戸 もり

 

 

 

〆鯖握りを注文するころ、やっと奪い合っていたタッチパネルが空く。

やれやれ。