ふつう、ってなんだろう。
たとえば、写真の固形石鹼。

ふつうの駅のふつうのトイレに置いてあるふつうの固形石鹼。
と、既にここでのふつうはわたしに決定権があるのだけど。
まあそれを踏まえたとしても、公共の、手を洗うという洗面台において、
固形石鹼とはこんなに異物に映るものなのだ。
利用者のわりに(東京名古屋長野石川方面へも延びている鉄道です)
減っていないのがわかるけれど、明らかに使用した感はある。
それで、使われている、ということにも再び驚く。
お掃除のゆきとどいた清潔なトイレだけあって、
あなたもきみもあのひともこのひとも、
だれもが平らかに使う固形石鹸の土台の下には、可愛らしい布巾が敷かれている。
それがまたエッジになって、あれあれあれれ、とおもうのだ。
ふつうってなんだろう。
ふつうってだれが決めるのだろう。
すくなくとも<わたし>ではない。かといって、<あなた>でもない。
ここは固形石鹸でいこう!と決めたのが
<わたし>でも<あなた>でもないだれかだとしたら、
<だれか>は、架空の人物、いや人でもない<システム>という名の
能天気だとおもうのだ。
その能天気のための費用(固形石鹸代金)がすこしは混じった切符を買って、
鉄道に乗った。
怒るほどでもないし、苛立つほどでもないし、
ご意見箱に投書するほどでもないし、おそらくそのまま
ふつうのままで、固形石鹸はそこに在りつづけるのだろう。
可哀そうだなぁ、とおもわないでもないけれど、
なりたくはないなぁ、と強くおもうのだった。
 
 
   初夏の膜ぶ厚くてカフェオーレ   漕戸 もり
 
年がら年中飲みものはホット。
特記事項:アルコールを除く