当時は異端児とみられていたのか、だれもまねしなかった。
先駆者である高須先生の<新しさ>に、時代がやっと追いついてきたかたちだ。
街のあちらこちらに、医師の拡大された顔写真が点在する。
なかには、ご夫婦で経営されている医院らしく仲睦まじい様子で、
とうのたった新婚さながらに並んで写っていらっしゃる看板もある。
見ているこちらがなんだか照れくさい。
恐れ入ります。
先日も、某駅に降りると形成外科のどでかい顔看板が目に飛び込んできた。
きりりとほほ笑む医師の肌は日サロさながらこんがりと灼け、
口元からは真っ白な歯がこぼれている。
そのうえ、白衣のうえから鍛えられた筋肉が見て取れる。
ほほう。
形成外科医なのだから、青白い顔に眼鏡をかけわたくしお勉強できます(イメージ)
というよりも、腕っぷしには自信がありますというほうが、
体ごと預けられそうな気になりやすいのかもしれない。
時々、「顔が名刺ですから」と言って、名刺を持たないかたと
お仕事をさせていただくことがあるが、それはそれで潔いとおもう。
けれど、病をあつかう医療従事者に<顔が名刺>という風潮が
このまま広がってゆくことをおもうと、いささか複雑ではある。
以前はじめての病院にいったとき、HPに掲載されていた医師の雰囲気と、
目のまえにあらわれた医師の佇まいがあまりにも違うので、
落胆して帰ったことがあるが、
それ以来、医師は顔で決めてはいけない、と用心するようになった。
このまま、電信柱も電線も医師の顔看板も、
日本の街の一般的な景観になってしまうのだろうか。
写真は、近所でわりとまえから見かける顔看板。
この医師の良心的なのは、運転免許証のように数年前写真を更新した点だ。
当初の若々しい様子から、年齢を重ねてすっかり貫禄をつけたところを見ると、
病院の経営はまずまず順調なのだろう。
お会いしたことがなくても、この看板をみるひとびとは
遠い親戚のように「達者かのぉ」などとおもっている。
そのうち、高須先生みたいにCMにも登場するのだろうか。
こんなふうに、
看板に顔を載せると、余計なお世話を焼かれやすいということを、
医療従事者さまは覚えておいたほうがいいかもしれない。
気の抜けたラムネの味の水母かな 漕戸 もり
、のような印象の水母です。
