石川選手の一軍復帰戦に出かけた。

対巨人戦。

最下位争いとはいえ、中日が快勝。

石川選手の貢献もすばらしかった。

野球の神さま、というよりも、もし神さまという存在があるのだとしたら、

石川選手の神さまがどの選手の神さまよりも強かったのだろう。
もちろん、彼の怪我以降のリハビリの大変さや復帰までの道のりを思うと、
うっかり野球の神さまなどと言いたくなるけれど、
わたしみたいなとるに足らない怠け者には、想像もつかないような鍛錬の日々を、
球団選手(この日は中日のみならず巨人の選手もふくめて)
ひとりのこらず過ごしているに違いないのだ。
そんなことをかんがえれば、全員にいつもいつも<ご褒美>は授かるものだとおもいたい。
まあ、それでは勝負にならないのだけど。
 
選手たちの首や手首に磁石かパワーストーンか、
重そうなそれでいて、仰々しいというか…わたしのような怠け者からすると
かえって具合が悪くなるようにみえるネックレスやブレスレットを見かけるたびに、
心労と言いましょうか、勝負師の心細げな一面をかんじてしまう。
今は二軍にいるのでどうなっているかわからないけれども、昨年根尾選手にも
そのような<神頼み>的なアクセサリーを見てしまったときは、
なんと言ったらいいのか…、こんな若い青年が背負うものの大きさについて
残酷とまではいかないまでも、どうか押しつぶされないように、と
願わずにはいられなかった。
野球の神さまも、また短歌や俳句の神さまも、
磁石やパワーストーンやその他、<幸運グッズ>というものに
あまり影響されずに、だれの頑張りにもご褒美を授けたり、
頑張りかたがもし間違っていたら正してくれるといいのだけど、どうだろう。
パワーストーンぐるぐる巻きだからって、そこに吸い寄せられるからって、
微笑むとしたら、わたしたちは神さまから、
なんだか非常に哲学的な問題を投げられている気がしてならない。
 
さて、ドアラのバク転はもう見られないのだった。
バク転をするかわりに大太鼓を叩くことになったそうだ。
ドアラには、赤ちゃんの時代もないしそのうえ年寄りにもならず、

相変わらずドアラなのだけど、ドアラのなかのひとの年月は止めることはできない。

これもまた、神さまでもってしてもどうしようもない現実だ。
でも、ドアラにとってなかのひととは、
ドアラの神さまのようなものなので、どうぞご無理なさらずに。
なかのひと。
ここに先ほど述べた<哲学>の起源があるのかもしれない。
 
 
 
  重ね着のまへをはだけてほんたうと言へば言ふほど火はゆれてゐる
                  漕戸 もり