待ちの時間があったので、数日前に目黒考二さんの「活字三昧」(角川文庫)を
鞄に突っ込んでおいたことをおもいだした。
再読も再読。内容も朧なのでこうゆうとき読むのにちょうどいい。
生意気な若者だったくそ馬鹿なわたしだったが(進行形)
目黒さんの読書遍歴には随分影響を受けてきた。それなのに
お亡くなりになる最近まで、気の遠くなるほどほったらかしていた。
こんなのファンでもなんでもない。申し訳ないです。ごめんなさい。
訃報を聞いてから急に、前後二重になっている書棚の奥の院
(自分勝手な名称。つまり表の棚ではなく隠し棚のような奥の棚)
から引っ張り出してきた。
著者がご生存でもそうじゃなくても、会えるわけではないし
会ったとてどうなるものでもないけれど、
著者が天国に逝ってしまってから作品にふれると
ついつい追悼のような気分になってしまいがちになる。
しまいがちだけど、目黒さんの本はつとめてポップに読みたい。
ええ?!
再読だとしても全然思い出せないのをいいことに、斬新に飛び込んできたエッセイ。
春日井建氏の短歌に感銘を受けた一遍があった。
目黒さんが衝撃を受けた春日井氏の短歌は…
ミケランジェロに暗く惹かれし少年期肉にひそまる修羅まだ知らず
喉しぼる鎖を父へ巻く力もつと知りたる朝はやすけし
夜学より帰れば母は天窓の光に濡れて髪洗ひゐつ
春日井 建
つづけて目黒さんはこう記す
春日井健の歌で短歌を知った私は、雑誌「短歌」まで購読し、
その雑誌を隅から隅まで読んだ。
※原文ママ
目黒考二「活字三昧」角川文庫より
わけもなく嬉しい。
なんだこの嬉しさは。
どうしてか、また、だれにかわからないけれど
<赦されている>とおもった。
それは目黒さんにでもあるし、
短歌の神さまにでもあるし、
春日井建氏からでもあるような気がして、
また再読すべき本を知るのである。
写真は膝のうえで読んでいた件のエッセイの見出し。
春日井健、と記されているのも微笑ましい。
(タイトル以降すべてこちらで統一されている。
それだけ当時の短歌はマイナーな文学だったと見て取れる)
ぜんぜん怒れない。
おおらかなその時代そのものもたいせつな歴史なのです。
おふたりとも、もう生きていないのだなあ。
三毛猫を膝に留まらせる腕に力の入りてちから逃しつ
漕戸 もり
