先日、選挙の鶯はもうやらない、人に振り分けている(ボランティア)、と
言い切ったけど、今回の選挙はダブル選なので方々で人員が確保できていないとみえ
すこし手伝う事態となった。
やるからには誠実に丁寧に尽力をさせていただく。
わたしの良心なんて、ここでは塵みたいなものだ。
たとえば、昼食どきの閑静な住宅街を街宣車で走るとき、
「○○○○(候補者名)をどうぞよろしくお願いいたします!」という声は
自然と控えめになるのだが、「ここはすこし大きめでいこう!」と
候補者や支援者にガッツポーズでもされようものなら、
そのガッツに勝つようなものなど存在してはならないと決まっている。
寧ろ、ないほうがいい。
けれども信じたいのは、
そんな非力な良心だとしても、捨てないほうがいいということだ。

お年寄りのかたにはお年寄りのかたへ、お勤めのかたにはお勤めのかたへ、

子育て中のおかあさんなら子育て中のおかあさんへ、というように、

それぞれの<目線>にあわせてお願いをしなくては、

わたしたちはただただ騒音をまき散らすだけの暴徒になる。
そうはっきり言ってしまったら、怪訝な顔をされてしまう現場だけど
引き受けた以上、当選をしていただきたい気もちに変わりはない。
意外にも、大声でお願いして耳を塞がれたらおしまいなのだということは
何十年前から令和の今でもあまり理解されていない。
政治家ですらそうなのだから、市井のわたしなど怪しいものだ。
目線がたいせつとうそぶきながら、思いを伝え過ぎて去られた恋人も
その逆に去ったことも、どことなく肯定して生きている。
まあ、もしかしたら政治家向きかもしれないけれども。
 
塾や会社が立ち並ぶこの町のファミマの2階はイートインスペースになっていて、
勉強や仕事をしている学生やサラリーマンやわたしがいる。
写真は街頭演説。
思いは耳を近づけないと聞こえないくらいで伝えるのがちょうどいい。
想像力も鍛えなくては。 
 
 
     四月には四月のふくらみかたがありATMに拾ふクリップ
                     漕戸 もり