名古屋駅西口から江川線をこえれば
じぶんがずぶずぶと深みへ足を踏みいれているような感覚になる。
そのうえ、この細いたなびきには底がないのだから、
ある程度のところで左か右にめやすをつけておいて、
一杯引っかけていかないとまずいぞ、という雰囲気を持つ。
今年も春の陽気に誘われて、ついうっかり来てしまった。
みなさまご存知黄門さまともひさしぶりの逢瀬をたのしむ。
たのしむとはいえ、ここに立って待っていて欲しいかと問われれば
べつにどちらでもいい。
なんでもこちらのstatueはどなたかの寄贈らしい。
寄贈であれば節操なく、たとえばこんなふうに
交差点の目立つところにでも設置してくださるのだろうか。
それとも、こんな自由は富裕層にしか許されない特権なのだろうか。
もしわたしがその許された富裕層なら、
里見浩太朗版の黄門さまを寄贈しただろう。
※そもそも許されてもしないけれど
 
う~ん悩ましい。
 
これではどこかの悪徳政治家ではないか?(写真参照)
まあ、悪徳と美徳はだれでも心に併せ持つものだから
こんな私感はあくまでルッキズムに基づくもので、
今すぐ世間に叱られるだけである。
でもなあ。。。
円頓寺の黄門さまやほかにも三英傑のstatueをみるたびに
寄贈者という<権力>をかんじてしまう。
寄贈者の狙いは善意に溢れたものにちがいない。
円頓寺を盛り上げるという熱意も感じないではない。
けれど、なんだろう、それがわかるだけに沁みだしてくる<権力>感は。
黄門さまや三英傑がいなければ、円頓寺はもうすこしオープンな
場所になっていたのではないかとおもうのだ。
オープンでディープ。
最高じゃないか。
 
さてここは既に二軒目であり、屋号も記憶にない。
それでいて三軒目にも行ったのだった。
円頓寺商店街のなかに入り込んでしまった以上、
そういう潔さも必要なのである。
 
 
  惣菜をひかりのくにに見立ており煮たり和えたり妬んだりして
                 漕戸 もり
 
 
眩しすぎて眺めていたらなくなっていた幻のお惣菜たち。