好きな場所のひとつとしてホテルのロビーがある。
わたしの場合、ホテルは仕事場となることが多いけれど
仕事になると概ね裏導線でホテルに入るので、
ロビーに待ち合わせなどをすれば、自然とお客様の顔になる。
老舗のホテルだとそれなりに年季の入ったソファーでも
よく手入れのされたものになると(残念ながらそうでないところもある)
ふかぶかとしずみこんだときのうけとめられかたに、
なんともいえない幸福感をかんじる。
ロビーに活けてある花も、出過ぎずかといって控えめというわけでもなく、
迎えるという立場をわきまえてあれば、
わたしをしっかりお客様という立場にさせてくれるのに効果がある。
こんなとき、ふと近寄って顔を寄せたくなるものだ。
近寄りがたいほど迫力のある花だと、いくら魅力的でも
かえってわたしのみずぼらしさが際立ってしまうようで、
自然と視界から外すのだろう、
そのときの印象がまったくないということもあるので、
なにごとも塩梅というのはむつかしいものである。
つぼみはつぼみの、花は花のやくわりがあるとするのなら、
明日ここに来ても今日とおなじ(ような)ものがみられるだろう。
早朝か深夜かわからないが、花の手入れをするお客様の少ない時間に、
ひらきそうなつぼみとひらきすぎた花は抜かれ、
毎日変わらぬバランスで花はわたしたちを迎えてくれる。
けれどもし、不動な美をもとめるのではなく、動く美、つまり
表現する美が生命や時間のようなものなら、
毎日通うとつぼみがひらくのがみられたり、
花がはなびらを落としたりするのを見られるのかもしれない。
ホテルのロビーは一般的には一期一会の場所といわれるが、
だからといってぜったいに毎日同じホテルに用事がないか、といわれれば
そうだと断定もできない。(このホテルに勤務している人を除いて)
毎日、いや数日でもこの花の脇を通る可能性があり
様子が変わるのをみられることがあるならば、
それはある意味特権であるし、贅沢な体験だとおもう。
とはいえ結局は、明日も明後日も永遠に
ロビーの花はいつ見てもだれがみても不動な美を目指して
そこでお客様を迎えるのだろう。
ホテルのロビーとはそういう場所であり、非日常であり
だれでもがお客様になり、だからそんなところに
たとえ美であるとしても、生命や時間をかんじさせるものなど
あってはならないのだ。
でも、もしつづけざまにこのホテルのロビーを訪れる用事があって
つぼみが徐々にひらいてくるのを見られたら、
ソファーとおなじくらいしあわせな気持ちになるのが想像できる。
あくまでもこれは想像で、ホテルのロビーに毎日毎日通うほど
余裕も用事も、いちばん肝心な会うひともいないので、
とりあえずソファーに座って足をぷらぷらさせているのだった。
三月の最終回を花びらで数へたらすききらいすききら
漕戸 もり
最終回の数だけ新番組がはじまる。
番組改編、未だに緊張感のある言葉。

