文字を読む休息にまた文字を読む。
読むにはかわりないのだけれど
心の持ちようが違うので、体の疲労に気持ちが勝つのだろう、
ぐんぐんと音を立てて回復する気配をかんじる。
こんなとき、持ち運んでも傍らに置いても邪魔にならない文庫本は
とても重宝する。珈琲とビスケットほどのお値段で別世界へいけるのは
なんも贅沢な娯楽である。
携帯電話(マナカも電子マネーも完備)とリップクリームと文庫があれば
名古屋から、北は東北、南は大分くらいなら散歩の延長として行けそうだ。
マスク生活のおかげで、眉だけさくっと整えれば
化粧をしないでどこへでも出掛けられるようになった。
化粧というのはじぶんを奮い立たせるためのものではあるが、
~のため、だとか、~だから、とか、もうどうでもいいんじゃないか、と。
要するに、よくいえば自然派になったと言えるし、
悪くいえば手を抜くことを知ってしまった。
自然派、つくづく都合のいい言葉だ。
 
「エゴイスト」 (高山真著 小学館文庫)を読む。
 
小説が映画化された場合、読むか観るかどちらが先かというのは
永遠のテーマであるが、

個人的には読むほうが圧倒的に先であるし、

読むだけという作品もすくなくない。

近いところでいえば、

「ある男」(平野啓一郎著 文藝春秋)も、本を読んでから
映画を観ようとおもいながらも、結局シネコンに行けずじまいになってしまった。
もしもその逆だとしたら、どんなかたちであれ
読むのを諦めるようなことはないだろう。
どうしてかじぶんでもわからないけれど、
(映画は上映期間が決まっているということがあるとしても)
演者の表現する感情の隙間を、もうすこし埋められるたしかなものが
文章にはあるとかんじるのだろうか。
読みたさは抑えられない。
マスカレードホテルなど、シネコンで観た数日後には本を読んでいた。
小説の細かな助詞の使い方や、改行、「」のくくり方まで
想像のなかでは、木村拓哉より窪田正孝より主人公に近い<わたし>である。
想像のなかで、というのがなんともおもはがゆいところではあるけれど。
 
前振りがつい長くなってしまった。
「エゴイスト」にもどろう。
小説は、恋愛を軸にして家族のありかたや後悔や
生きかたや都会や田舎やそのほか、
さまざまなものがシンメトリーのようにして綴られる。
秘されているものが前提にあるせいか、
実はよくある話ではあるけれどそうおもえないところが、というか、
特別な話におもえてくる。
こういう<特別>は往々にして感動に直結しやすい。
映像にしてしまえばこの手の<特別>はとくべつなまま終わることが多いし、
その方が映画らしいので決してわるくはない。
逆にいえば、小説という形態になると
秘されているものが最初からわかっているせいか、
この<特別>はそうではないという理解のうえで
感情というものは平らかに、
良ければ揺さぶられる、そうでなければ何も変わらない、と
決まっている。
結局は、どちらの形態がすきかということなんだとおもう。
 
この文庫は、元々シンプルなカバーで販売されていたものに
映画のヒットによって鈴木亮平さんと宮沢氷魚さんの映画のワンシーンを
切り取ったカバーがかかっているので、いやでもふたりの容姿が
ちらちら小説にたちのぼってくる。
秘密になりきれない秘密のまえで、ときどき表紙を眺めながら読みすすめる。
一体なんの確認をしているのだろう。
小説家が小説(この作品は自伝に近いものらしいけれど)の創造主であるならば
読者とはどういう立場といえるのか。
そんなことをかんがえながら、つかの間の休息はおわる。
生活にもどるまえに、カバーのふたりをもういちどながめる。
このときは、確認というより、あちらとこちらに線を引くという意味の
念押しなのである。
 
 
  啓蟄のうらがはに潤つてゐる    漕戸 もり