歌集を読む。
気ままに読む。自由に読む。贔屓目で読む。軽やかに読む。髪をほどいて読む。
ときおり湯を飲みながら読む。ちいさく笑ってもいいとする。咎めてもいいとする。
時計は見ない。電話は出る。メールは後で返す。エアコンは入れないかわりに重ね着をする。
ひとつの鳩になり、
嘴からほうほうとけむる息で冬を温めながら。
島田修三第七歌集「帰去来の声」
(まひる野叢書第三〇八編・2013年発行砂子屋書房)を読む。
薫りつつ缶にひしめく両切りの一本を選りてわがともすなり p16
芽吹きゆく楓のもとに恋猫の身をうるませてしぼり鳴く見ゆ 21
卓袱台の真中に置かれ魔法壜あはれ昭和の魔法つましき p22
壺あまた在りし厨の記憶にて壺は優しき容れ物なりき p23
俺はここにゐるぢやないかと独りごち愉快のまにまに珈琲来たる p31
仏蘭西に行きたかりし日も茫々と無花果むけば指かゆきかな p33
歌集の発行が10年前なので、歌が詠まれたときはそれよりやや遡るにしても、
もうすでに単色の風景がなつかしい。
両切りの一本~。煙草のピース缶は映画や小説で知った。煙草=大人と感じながら、
すっかりおとなになってしまえば、煙草は煙草でも缶の両切りというだけで、
もうすこし込み入った感情を味わえることがうれしい。
ともす。光ではなくかといって、蛍のように綺麗と愛でられる類ではない。
煙草のともしびは、人ひとりあたためるのによく似合う。
しぼり鳴く恋猫。卓袱台の魔法壜。かゆい指。
作者の目、というライトが当たれば、
とるに足らない動作や状態は急に色めく。
寝て暮らす人ならざれば糊こはきワイシャツまとひ起動す俺は p36
ひととせを来ざりし酒房の壁ぎはに座れば不意に老いたり俺は p51
脂なほ弾けてやまぬ秋の魚腹よりむしりむさぼる俺は p52
この歌集に、<俺は>で結ぶ歌はこの他にも多数ある。
<俺>がみられるからといって、
男歌の話題に移すのは短絡かもしれないが、
佐佐木幸綱の歌を挙げてみる。
たとえば、
奴は女くったくのない瞳さえ俺の裸身の汗に裂かれき 佐佐木幸綱
佐佐木の俺。島田の俺。こうして眺めてみると、
どの<俺>も、なんと崩れやすい印象なのだろう。
俺についてこい、という俺ではない。いや、ついてこいと言いながら
俺、俺、俺、というたびに朧になる。もしそういう効果を狙って
<俺>を挿入しているのだとしたらお手上げであるけれど、
そうでないほうを願う。
そのほうが、作者の生成り(きなり)に触れた気がするからだ。
ひとは食べているとき無防備なことが多いが、
それを俯瞰で見てみると、食事には実に心情が現れやすいことがわかる。
自身が自身(或いは他者)をみつめる目はどこか自虐(又は問責)的でもあり、
それがなおのこと読み手を惹きつける。
里芋の煮つころがしを箸につつき世捨てのごとく憩はむとする p56
ロースカツ揚がらむまでのときのまをけぶりのごとき不機嫌にあり p72
しばらくを感傷にひたり舌を灼く鍋焼きうどんに専念せむとす p100
どんぶりに野菜啖らへる身の上は蟋蟀ならねば溜息ふかし p130
つづまりは見た目ほどには腹坐らぬ奴なり畳鰯をあぶるも p200
里芋の煮転がし、ロースカツ、どんぶりの野菜、鍋焼きうどん、畳鰯。
先の<男歌>に話は戻るが、
島田が男歌の筆頭歌人にならない所以がここにある。
いやはやどうして、女に手を延べたいとおもわせるようでは、
まだまだやさしい。
ジェンダーが声高に叫ばれる令和に、
時代遅れのような話をしている感はあるけれど、
こんなふうに、男女の良き意味での格差をたのしむ素地を、
ゆるしていただけるとしたら、歌は快い。
帰去来の声は聞こえず紊乱の机上に頬づゑつくときのまも p94
いま俺は何叱らむとしてゐたか とにかくその、と繋げば夕焼け p122
階段のなかほどは濡れわがくだる須臾の間さびしき水音のする p135
敷石に貼りつき朽ちゆく楢の葉を剥がさむとする俺がわからず p161
あとがきに<血縁係累の待つ故郷というものをとっくに失った>と書かれたのち、
<故郷は歌だろうと思っている>とづづく。
帰去来の声は聞こえずとも、歌は生き生きと詠まれてゆく。
失うことも、茫然とすることも、さびしさも、わからないことも
生き生きの根源として編まれるべく<材料>として。
晩秋と冬のあはひの青空を椅子に頽ほれ見てをり俺は p196
気づくと付箋を付けた半数以上の歌に<俺>がいた。
ああそうだった。
煙草=大人、と平たく感じていたときのあのときから、
すっかりおとなになっていたのだった。
それは、込み入った感情を収拾しているような<俺>を
見過ごせないおんなのおとなになったということでもあった。
再読も悪くはない。
なんだか熱燗が飲みたくなった。
言われなくても飲みます。
なので今日はこれにて。
