ツィートを開きっぱなしというわけではないので

リアルタイムというより、

どなたかのいいねやリツィートを経由して流れてくる

古い(きのうのことを古いというかどうかは疑問だけれど)

ツィートをみるほうが圧倒的に多い。

不思議と時差のあるつぶやきというものは、

歴史や日記をふりかえるのとは違い

消し忘れた文字、或いは居残った筆圧のような印象がある。

だからか、盗み見ているような気分になることもなくはない。

盗む、と言うとなんだか物騒だけど、

そもそも<盗む>ほどの労力をはなから持たないので、

大半は文字であるのに読むというより見る感覚に近い。

混んでいるフードコートのテーブルに、

席を確保するためのだれかのコートが置かれていれば、

そのテーブルもコートも

<わたしとは関係ない>という認識でしかないように、

通り過ぎれば、覚えているのは

テーブルの形状でもコートの柄ゆきでもなく、

テーブルの<位置>(空いていないということも)だけなのだ。

 

それでも時折、

単なる席取りのためのコートが、記憶に残るということがある。

先日、尊敬する歌人のひとりであるTさんのつぶやきが、

どんな経由かわからないが流れてきた。

 

 

  仕事が終わらないなら朝早く来ればいい

  とのありがたいお言葉をいただいたので夜明け前に家を出た。

 

 

※前後のツィートは不明

 

たったひとことのつぶやきであった。

でも、一遍の小説のような印象で暫くこころを奪われた。

おもえばこれまでの人生で、

仕事が終わらないなら朝早く来れば、と

言われたことも言ったこともない。

ないし、そんなふうな状況というのにも

心当たりがない。

最近は、なんだか

もうじゅうぶん生きてきてしまったとおもうことがあるけれど、

やっぱりそうおもうのは早すぎるのだ。

言われることはないかもしれないけれど、

せめて言うことくらいあるかもしれない。

才能か人か仕事かなにかわからない何か期待できるものに、

そうやってじぶんの<朝>を差し出すというのは

一体どんな気持ちなのだろう。

 

ありがたく夜明け前に出る、というのはどうか。

繰り返しになるけれど、

おもわれたこともおもったこともない。

ないし、そんなふうな状況というのにも

心当たりがない。

以下には先とおなじような感情が重なる。

 

短歌や俳句を嗜むひとというのは、

短い文章であればあるほど

夏目漱石か川端康成か、まあだれでもいい、

文豪といわれている作家に通じるような筆力を発揮する。

歴史にも日記にも属さない爪痕にさえならない<つぶやき>や

テーブルが空いていないことを示す<コート>の柄ゆきに、

品のいい色が織り込められていたりすることもたしかにあるのだ。

 

その逆に、

つぶやくのはなかなか難しい。

酔っぱらってつぶやいてみたけれど醒めれば削除しているようでは、

テーブルを取るコートすらないのとおなじだ。

なんとも情けない話である。

 

 

 

  肩掛けに肩を合はせる中身かな     漕戸 もり

 

 

 

 

 

GOOD NEWS頂きました。

食べました。

身になりました。