川端康成に「東京の人」という小説がある。
読んだことはないくせにどうして知っているかというと、
実家の書棚に東京の人は、続東京の人、続々東京の人、完結東京の人
とつづいて4冊揃って並んでいたからだ。
茶に変色した記憶の本はどことなく不気味で、
続ですら執着をかんじさせるのに、
続々ときたら諦めきれない作家の執念すら漂う。
完結といってむりやり閉じたような乱暴さも、
子どもながらにどうかとおもったものだ。
川端の「東京の人」に当てはめれば、本日は続々中日短歌会後記となる。
早速例にのっとって執念で書いてみよう。
先月11月の歌会へ詠草は送っていたのだけど、
仕事があったので欠席した。
当日欠席の場合は、評はいただけないし
評が集まったとしても評価されない。
(まだ数回しか中日歌人会の歌会に参加させていただいていないので
もし間違っていたらごめんなさい)
里子に出したわが子(自作の一首)のようすは知りたくとも、
尋ねてはならない、と歯を食いしばる。
…とそんな大げさなことでもないのだけれど、
12月の歌会で歌人のT様が、
11月の歌会でのわが子の(くどいけれど自作の一首です)
健闘ぶりをお知らせくださったのだった。
11月は特別歌会のため三重県で開催だったため、
選者にはいつもの秀悦な歌人様たちに加え、三重方面在住の
未来短歌会の歌人大辻隆弘さんも名を連ねていらっしゃった。
その大辻さんに最優秀歌として選んでいただいていた。
叱咤激励とおもう。
大辻さんとは8年ほど前一度だけ、
名古屋で月に一度開催されている、
二時間ほどの短い歌会に参加させていただいた際、
お目にかかったことがある。
大辻さんのお人柄が大変朗らかで、参加されていた歌人のお姉さまたちは、
時に大辻さんをだめねえ、なんてしれっとおっしゃるのだけど、
時間通りにその歌会が終わると、
次の文化センターでの短歌講座までに時間がないといって、
速足でそちらの会場へ向かわれる大辻さんを、
くだんのお姉さまたちが親衛隊のように追いかけてゆく光景は、
おお、これが与謝野鉄幹の世界かと、まだ短歌を始めて間もないわたしは、
華やかなものを一瞬みたような気がした。
それが誤解かどうかは未だ解明していないけれど、
大辻さんが権威を振りかざすような方ではなく、
柔らかなひとだということを知った。
大辻さんはきっとわたしの存在など微塵も覚えてはいないだろう。
それでいい。
そのほうがいい。
作者名を伏せて選歌された短歌は、わたしの手を離れて選者のものになる。
一瞬でもだれかの心に触れられたらそれがいい。
体からまず傾いてゆつくりと心が従ふやうな狐火
(漕戸 もり 2022年11月中日短歌会三重特別歌会詠草 大辻 隆弘選)
ということで、
大辻さんの歌集「景徳鎮」を久しぶりに読む。
父さんが匂ひはじめてあぶないと妹はいふ声を落として p97
洗ひ物終りし妻が去りたればまづ蛇口より冷えてゆく家 p130
ささくれて溶けし瓦に触れてをりわが指先はおづおづとして p138
別々の連作から選んでみたが、3首とも一連をながれる人~家族や自身の~
の息遣いが聞こえるようだ。
死の匂い、冷えはじめの蛇口、おづおづとした指先…見逃しがちな日常風景が
急に無くては成り立たない鍵となって歌中にカチリと在る。
存在感とはそのものにあるのではなく、そのものに与えるもののように。
ノースリーブの腕のひかりの苦しくて好きになつたらあかんと思ひき p149
雨となるむしろすがしくこの夏の身絞るごときひとつこと終る p152
声として雨のむかうに立つてゐるあなたであるのだらうか時雨 p174
絞られて速き流れとなるときに川は苦しむ身をくねらせて p195
こちらも連作の垣根を越えて選歌してみた。
愛と恋とは明らかに違うのだけど、
恋とはね、と説明するときにひけらかしたい歌たち。
作者にとってこれらは恋の歌ではないかもしれないが、いや恋でしょう。
こういう短歌を詠まれると、歌人の恋人はしんどいなとおもう。
ただし、作歌としては学ぶことしかない。
こんなふうに吐露して、いつか恋人をおじけづかせたいものだ。
明日はすこし寒いらしい。
冬のはじめのような12月。
もう半ばである。
美しく煙のかたち立ちあがる季節とおもふ冬のはじめは p206
大辻隆弘第八歌集「景徳鎮」 砂子屋書房 より引用
