たとえば、旅から帰ってきたその直後というのは、
土地の名物の味や名所旧跡や、街や店や、乗り物や人などに、
予定通り、食べたり観たり訪れたり、乗ったり会ったり、
或いは予定に反して、食べられなかったり、観られなかったり、
訪れられなかったり、乗れなかったり、会えなかったり…ということを、
よかっただの、疲れただの、また行きたいだの、ハプニングもたのしいだの、
とりあえず、経験をぜんぶぜんぶおさらいしておかないと損、みたいなかんじで、
おもったり、話したりするものだ。
でも、旅からしばらく時が過ぎ、
そういえば、とおもいだすことは、
旅行直後に丁寧にふりかえったような事柄ではなく、
文章でいえば、句読点のような、感嘆詞のような
場合によっては、(笑)、のような
一瞬の取るに足らないできごとのほうが多い。
それだからって、旅の印象は変わっていないのだけど、
それがあったから、
旅全体が引き立ったとか、映えたとか、
終いには、
だからあの旅はたのしかった、とおもえるのだから不思議である。
11月23日に開催された
「現代短歌フェス名古屋2022」の資料を片づけていたら、
当日のプログラムの半紙の隅に、わたしの筆跡で
数をかぞえるときにつかう(正)の字の途中書きがあるのをみつけた。
イベントの第1部では、
勝手がわからずうしろのほうにすわっていて、
ひどくなりそうな雨に気を取られながら、
むつかしそうな話を聞いたり聞かなかったりして、
その数、をかぞえていたのだった。
(正)の字は、限りなく完成間近で終わっていたけれど、
その数がただしいのかまちがっているのか、
正確なことはわからない。
なんともそれは、決して大袈裟でなく、100対1の決裂を生んだようにみえた。
鮮やかで潔くのびやかで、
久しぶりというのに、初めて聞いたみたいな
あかるい意思表示だった。
「おことわりした。」
歌人加藤治郎さんとコーディネーターの歌人荻原裕幸さんと
対談されているとき、歌人枡野浩一さんが放ったことば。
おことわり、とか、ことわった、とか
そんなかんじで、(お断り)は、枡野さんが言うたびに、
ほほほほほほほほほほほぉ…、というようなさざなみが、
枡野さん以外のそこにいた全員の心中にうねった。
(ようにかんじただけです)
ことわる、は
正の字を完成させない程度に発せられただけだったけれど、
それでも、第1部の題目「ぼくたちのいる場所、その作品」において、
歌人桝野浩一さんを生み出した発芽をあらわすのに、
とても似合うことばだった。
詩歌(それ以外の芸術や芸事全般にでも)にたずさわると、
ことわる、という行為は滅多にみることがない。
よくかんがえたら、いやだ、ときちんと言うことは、
生きるうえでいちばんたいせつなことなのに、
人生と制作のそれぞれの世界では、
生きるためのたいせつなことが真逆にみえる。
でも、そうじゃなくて、
制作に関してもおなじくらいの温度で、
お断(ことわ)れるのが、制作を生きるという覚悟なのだとおもう。
ところで、枡野さんは一体なにをそんなに「おことわり」したのでしょう。
それは、当日その場にいらっしゃったかたのみぞ知る。
もしかすると、聴講者のみなさまですら覚えがないかもしれない。
句読点であり、
感嘆詞であり、
(笑)、のそれはあまり目立ってもよくない。
けれど、それにあとから気づいて胸打つこともあるのだ。
裏側が急にぶ厚くなるコート自己憐憫へ腕からとおす 漕戸 もり
