案外地味な場所で作業をしていることが多い。
打ち合わせなど、座ることができ、机があれば上等で、
ときどき、此処ではあまり言えない場所…
まあ、影響力のまったくない「月いれ」
(ブログ略称。発音はマクドでお願いいたします)
なので、すこし述べると、
ひとが亡くなっている脇だったり、
ゴミの山に埋もれかけながらだったり、
数分もいれば凍ってしまうような氷上だったり、
撮影とはいえ、隣で性行為がなされている現場だったり…
ぶっとんでいるところで打ち合わせをすることもある。
仕事にしても、コロナ禍以降はみられなくなったけれど、
くちびるに血が滲むほど乾燥しているスタジオや、
華やかなショーのうらがわの、
ふれると十指すべてにとげがつき刺さるような、
むきだしのベニヤ板に囲われたブースであったり…。
地味というより、まさに暗部といえるかもしれない。
けれども、
すばらしいしあわせや、ほほえみや、
この世のものとはおもえないような、
うつくしかったり、クレーバーだったりする人間に遭遇することもある。
ひとは、「大変そうだ(−)」とか「いいね(+)」とか、
いろいろ言うけれど、それはどれも片面をみたときの感想でしかない。
個人的にはどちらも、重要で、必要で、
それで、
いちばんここが肝なのだけど、↓
どちらにも、好き嫌いという感情を置いていない。
たとえば、対談などでお相手が、
「わたしはお酒がきらいです。○○さんは?」と聞かれたら、
「わたくしは本日は中立の立場ですので、それにはお答えしかねます」とか
本意でもないのに、
「奇遇ですね、わたくしもです」と、同調するということではない。
そうではなくて、
(仕事全体)をふりわけない、という意味においてである。
12月は、1年のなかでも特にそのアップダウンが激しい。
100円ショップのカップ麺を飲み込んで、
牛一頭を食べつくす美食会に出向いたりと、
ふり幅はどちらへもふりきる。
コロナ禍ではあるが、予防策にも慣れてきた組織やひとびとなので、
宴会もわずかにふえている。
そういうひとたちの輪に、
入っているようで、実は輪の外にいて持ち上げているので、
お酒がずらりとならんでいても、よだれを流すことはない。
古本屋の店主が、お客様が吟味されている(ときに立ち読みと呼ぶ)
本を横どりしないのと似ている。
売れてしまったあとは、さびしさよりも、
達成感と共感と感謝の余韻が、
店主と、
ついでにわたしをつつみこむ。
本でもお酒でも、なんでもいいのだけど、
いくらすきなものに囲まれていても、
そのときは、好きでも嫌いでもないものになる。
もし、そのときの心の持ちように近いものがあるとしたら、
それは見守られてる、という感情だ。
見守られている。
本日の写真のように、すきなものに見守られている日も、
はたまた、きらいなものに見守られている日も、
達成感と共感と感謝があるのに変わりはない。
ていねいに。
丁寧に、12月。
せきずいが正しい位置に初氷 漕戸 もり
