とても極端な話、
仕事において、もしクライアントが、
ロシア様でもウクライナ様でも中国様でも、今話題の不透明な宗教団体様でも、
極悪非道な死刑囚様であろうとも、お相手に対しての感情はかぎりなく
無
である。
感情のなかにはいろいろな種類のものがあるけれど、
好き嫌い、という気もちに特化して言うのなら
無を通り越して
空(くう)
これは、
有の対義語としての無ではなく、無として存在するということに近い。
わたしは無宗教者(とはいえ我が家は仏教ではなく神道なので
墓石に榊を捧げることはある)なのだけど、
仕事が修行、と乱暴に言ってしまっていいのなら、
仕事をするうちにいつのまにやらそのときだけは 空 の境地に
たどり着けるようになった。
たどり着くというか…
(わたしに語彙が足りないので日本語でぴったりくる単語がみつからない)
英単語で表せば
penetrate、という感じか。
好きも嫌いもない世界に漂うのは、たいせつにおもう心のみである。
クライアントであれば、たとえ
ロシア様やウクライナ様や中国様や、今話題の不透明な宗教団体様や、
極悪非道な死刑囚様であっても、慮り寄り添う。
こんなふうに、今までもこれからも仕事をしていくのだろう。
けれども、
仕事ではなく、等価に値する金品がない日常生活や創作において、
この(好き嫌い)はいきなり、なくてはならない生きるための指針となる。
筆名で好きや嫌いは言えても、アナウンス名で好きや嫌いを公表すれば
たちまちお叱りを受けたり炎上してしまったり、やがて干されてしまう。
そういう先人を何人も見てきたし、今も見ている。
これは随分前、どこかに書いたのだけど、
新人アナウンス時代某名産牛の取材で、
なごやかに生産者様との訪問インタビューの生放送を終えて局にもどると、
当時のディレクターから低い声で呼び出された。
インタビューの話の流れで、生産者様から牛の屠殺の話が出たのを、
どうやらわたしははぐらかさなければいけなかったらしかった。
いまおもえばいくらでも方法はあるのだけど、
わたし自身興味のある内容でもあったので、
どなたかがその役割を勤めていただいていることをおもいながら
(美味しい牛肉を)いただかなければならないし、
このことはちいさなお子さまたちにも伝えていきたい云々、
のような話で受けると、生産者様も、
暗部を隠すのではなくこういうことも、
これからの子どもの教育に取り入れて欲しい、のようにお話しされた。
そのくだりの僅か数秒を、
ディレクターは叱り、わたしは始末書を書いたのだった。
このことがきっかけで、それについての書籍や映像や
子ども向けの本ですら、むさぼるように読んだり観たりしているうちに、
森達也さんの「いのちの食べかた」という名著と出会ったのも、
縁と言えば縁である。
だからといって、まだこれといってお金をいただくほどのものでない、
つまり何者でもない筆名漕戸もりなら、
なんにでも触れていいのかと問われれば、そうではないのだけど、
此処ではそういうことを吐露するのが、
役割のような気がしているのだ。
先日、家人がなにやら俯いて作業をしているので
愛用しているグローブの紐をあたらしいものに替えているのか、
ワイシャツのボタンを付け替えているのか(ボタンは自分で付けるルール)、
とおもいながら素通りし自室でパソコン作業をしていると、
にやけた顔の家人がわたしの部屋へ入って来て、
おもむろに黒の革靴を差し出した。
どうしたのかと尋ねると、
マドラスのふるぼけた革靴の、片方の踵部分を目の前に突き付けた。
「縫った」
裂けていたので捨てようとおもったが、
愛着もあるので、ダメ元で直そうと一念発起。
家にある材料と道具をあれこれと工夫して、やり遂げてしまったのだった。
涙が出るほど笑う。
器用貧乏もここまでくるとお笑いである。
当の本人はまんざらでもない様子で、
「老後は靴職人になろうかなあ」と、なんとも満ちた表情で、
仕上げに靴を磨くため、スキップをしながら(イメージ)玄関へ戻って行った。
ひとを傷つけるかもしれない大笑いも、家族にかかれば右から左である。
そのように、
此処での吐露をあまり深刻にかんがえないでいただきたい。
大笑いごときで、いちいち嫌いになるなんて
器がちっさ、だ。
というわけで長くなりましたが、
そういうことを今日は言いたかったということでした。
テリーヌといふ殺し方近松忌 漕戸 もり
必要があって近松を読み返している。
どれだけ殺せば気が済むのだろうか。
