やすたけまりさんの歌集「ミドリツキノワ」を読む。
やすたけさんファンの方々より、今さらなんだと叱られそうだけど、
良いものは良いのだから許してください。
ブログの写真撮影は最近調子よかったのに、
どうやっても横にしか撮れなかった。
相変わらずメカに弱いのでこちらも悪しからず。
撮影してから歌集の帯を外してみると、緑のテディベアがこちらを見ていた。
ミドリツキノワよ、きみはこんなところにいたのか。
こんにちわ、遅くなりました。
 
本棚のなかで植物図鑑だけ(ラフレシア・雨)ちがう匂いだ p8
 
植物図鑑ってそのうえぺたぺたしていなかったっけ、という

頁の手ざわりまでもおもいだしてしまった。

ラフレシアは、異臭を放つ花らしい。
はなびらのおおきさはせかいいち。
ひどいアレルギーをひきおこすどくかふんをばらまいてあるく、と
ポケモンずかんにも詳しい。
冒頭にあるこの歌は、つぎからの歌の数々が
やさしいせつないあたたかい、ファンンタジーでときに懐疑的でもあるので、
いつのまに忘れてしまうのだけど、
最後まで読んで名残惜しくもういちど戻って読むと、
やわらかな読後のままでは終わらせてもらえない、という揺り戻しが待っている。
やわらかなといってもなまぬるいものではない。
 
真夜中にはたらいているホチキスのつめたいせなかちいさなくしゃみ  p16
 
だれでれもが寝静まっている真夜中に仕事か短歌か絵画かわからないけれど
なにかが書かれいてる紙を纏めている。
ホチキスの芯はスチール製でそういえばつめたそうだ。
カチャカチャカチャというより、テンポは
カチャ   カチャ   カチャ  というのが真夜中に似合う。
ちいさなくしゃみはホチキスで留める音だけど、
ホチキスはひとの意志で働くものだと捉えると
操作している主体(わたし)のちいさなくしゃみひとつで
留め金が歪んでしまうことが真夜中にはありそうで、
そうかんがえるとおもしろい。
カチャ ガチャ グチャ ゴチャ(芯が詰まる音)
おとなになってもホチキスをさくさく使いこなせない
わたしならではの読み方になってしまった。
 
じいちゃんの部屋の富山のくすり箱トンプクケロリンけむりのにおい p22
虹の根が街のどこかにふれていて「こどもニュース」はこわくなかった  p26
そらのみなとみずのみなとかぜのみなとゆめのみなとに種はこぼれる  p32
せかいじゅうひとふでがきの風めぐるどこからはじめたっていいんだ  p50
ためいきでどこかへいなくなるくらいちいさな蜘蛛と住んでいる部屋  p62
 
この眼差しはどこかでみたことがある、とかんがえて
おもいあたったのがジブリ映画のなかだった。
主人公も脇役も善人でも悪人でもみんなこの眼差しをしていて
だから観終わったあとの後味はわるくならない。
ジブリ映画の外に生きているというのに
こんなふうに見たりかんじたりできるだなんて、
なんてすごいことなのだろう。
眼差しはそのあともつづく。
 
ひとりのこらずしあわせ、と春ごとに校歌はくりかえしくりかえし  p75
 
入学式、卒業式か。ただでさえ心もとない春というのに
やわらかなピアノの音に乗るだれにでも読めるひらがなの歌詞は
今ならわかる(殺生)だ。
一行も歌ってやんないから、という顔でそっぽを向いていた
ちいさなわたしを思い出す。
ひとりのこらずしあわせ。
そんなこと夢にさえならない今になってしまった。
春の歌はほかにもある。
 
街灯に連絡先があることを四月の雨のなかで教わる  p80
 
そうそう。たしかに街灯には番地やときに電話番号が書いてある。
それはたしかに今いる場所のものでもあるのだけど、
今此処の(連絡先)なのだ。
ただ素通りするだけの街灯に俄然存在感が増してくる。
教えてもらったという。誰にかは触れていないけれど、
四月の雨のなか、というのでまだはじまったばかりの
ぎこちない関係のともだちなのか、と想像してみる。
ともだちになって日が浅いので話すことも特になく、
もしかして一緒にいるときのはじめての雨だったのかもしれない。
街灯に名まえがあることを知っていて、そして知らなくてよかった。
こんなふうに、主体とは別に
もうひとりの存在がたしかめられる歌にはせつないものが多い。
 
ボートから腕を伸ばして先輩が水中メガネでくみあげる海  p88
「中学のときイノシシと呼ばれてた」ああその走り方は、そうだね  p92
自販機の紙のコップのカプチーノふたつふにゃふにゃ乾杯しよう  p102
いちまいの紙をへだててきみが出て/入っていった世界がふたつ  p133
 
どれも、なんてことないよくありがちな日常なのだけど、
そこはかとなく読後しんみりするのはなぜだろう。
海もイノシシもふにゃふにゃもいちまいの紙にも、
ちゃんと眼差しは注がれる。
もちろん、最終的にはきみに。
きみ、というのはなにも人だけのことをいうのではない。
次のようなものも(きみ)の気配を持つ。
 
いっせいに首をふるけどひとりくらい実は見ていたんでしょ? コスモス  p110
あした産む卵を持ったままで飛ぶ ツバメは川面すれすれにとぶ  p116
チケットの切り取り線がやわらかくはなれてしまうポケットのなか  p121
玉ねぎは球根 つつむ手のなかのかたいひかりがわずかに外へ  p105
 
コスモス。草木花を詠ませたら右に出る者はいないやすたけさんなので、
ふつうに二重丸。そのほかにもツバメ、チケット、玉ねぎ。
この歌集のなかの(きみ)たちはとてもたいせつに慈しまれる。
 
短歌が私小説か否かは、忘れたころたびたび議論されるけれど、
「ミドリツキノワ」の歌たちが、ひらがなを多くつかって
親しみやすく詠まれているのに孤高な印象を受けることと、
やすたけさんご本人の柔和な雰囲気とインテリジェンスなお話しぶりを、
つい重ねてしまう。
そういえば、表紙の緑のテディベアから向けられた視線は
やすたけさんのあたたかな眼差しとどこか似ている。
 
困るよね 花火の響きだけきいて書いた手紙だ、って言われても  p122
 
こんなふうに言われてしまいそうである。
 
歌集「ミドリツキノワ」
やすたけまり
短歌研究社
より